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それを、ふわりと名付けてみる。

目的があって、行動する。

例えば、トマトが美味しそう、食べたいなーと思って、いくつか収穫する。
必要ならお水で洗って、食べる。
「おいしいなー」と思う。

「トマトを食べたくなって収穫して食べる」

不思議だなと思ったのは、この時間を思い返した時に記憶に残っているのはトマトの味や食べた数でも「食べた」でもない。

収穫時の日差しの強さ、トマトの皮の中に透けて見える美しい世界、ふと考えた大切な人の体調、洗ったお水の気持ち良さ、、、

行動の周りにふわっと点在する様々なこと。付属品。

会話もそう。話している内容よりも、相手の後ろに広がる景色や、声質や表情なんかに夢中になりやすい。

名前を付けるなら、ふわり。
単独ではなく明確でもなく、重なり合ってふわりと過ぎゆくイロイロ。
何かの周辺に存在する、きっと私にはとても大切なイロイロ。
余裕や余白があってこその、ふわり。

行動という中心ではなく、周辺のふわりを積み重ねて私の感覚や思考が出来ているんだなと、ふと確信する。

それと、それ以外。
全部まとめて、積み重なっていく。
経験としては全てで、しっかり残っているのだけれど。
記憶として残るのは、周りのふわりが大半。

イベントで施術している時に聞こえてきた、相方の土井善春のモノマネの完成度とか、
森を観察していた時に一時的に流行ったヘンテコな語尾とか。
お客さんと話している時に見かけた、不思議な服を着た人とか。
素敵な例えが欲しいなー。
あ。夏に星を見ていた時の頬を冷やしてくれる様な夜風の気持ち良さとか。

ふわりの記憶がとにかく鮮明。
最近、メインの記憶が抜け落ちていることが増えてきている。

きっと、好きなふわりが増えてメインが薄まっている状態を他者から問題視されると、おかしな病名を付けられちゃう事があるのだろうな。

それを病気とするのならば、私は非常に重症。
これを「治す」が「良くする」ならば、私は確実に生きにくくなる。
このままで良いんだと、誰に言われた訳でもないけれど思っています。
メインに興味がないとか、どうでも良いとかではない。
ただ、もっと大切な楽しいことがあるだけ。
不思議とお仕事関係は丸ごと全て覚えているんだけど。

誰かの大切を、私も大切と認識していこーっと。
森の真似して生きていく。
生も死も丸ごと包み込んで。
広くて微細な視線を大切に。

あー、夏ですね。


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