死を内包して生きる。
先日、山の深いところまで遊びに行ってきました。山のパイセン・フミオさんに誘われて。
わたし「熊に会う?」
フミオ「大丈夫」…後から考えたら、いないとは言ってなかった。
わたし「どんな山?」
フミオ「ちょっとだけ急かな」…主語が「俺には」だったと気付けなかった、わたしがいけない。
車を降りたら、熊の気配。木には爪痕がいっぱい。
「道」って何だろうと、考えさせられるルート。
行き先も来た所も分からない、フミオさんに頼りっきりの山遊びの始まり。
全身を使って苔生した沢を登り、動物の気配を感じ、植物や風から季節の変化を教えてもらって、崖から滑り落ちそうになると山肌に沿って生えるクロモジや松たちに助けてもらいながら。
何とか座れる場所を見つけて周りを見る余裕ができると、どうやっても再現できない様な圧倒的なアートを見せられ感動し、沢のお水を沸かしていれてもらったコーヒーに安堵して、死と生を感じながらつま先と指先で崖を下り、どんどん先に行くフミオさんを視界の端で確認しながら。必死。
こんなに生命を使っているのは久しぶりだなと、山に感謝しながら。
さて、お山の報告です。
ブナの木はたくさんありましたが、今年のブナの実は1個もありませんでした。
ドングリも、ほぼなし。
動物の食べない栃の実だけが大豊作。
雪が積もりそうな予感はあります。
連日、人間に見つかってしまった熊の報道。
1人1人が気をつけることで、様々な視線から観察することで、出来ること、しないことがあると思います。
まずは自分で考える。
私も、森全体の視線で観察を続け、出来ることをしていきます。
安易に何かをバラ撒くだけでは、本質的な解決にはならないと思うので。
うわべだけのキレイは人間しか喜ばないので。
400歳は超えていそうなブナの木。
大きなウロの中を見ると、ブナの一部が土になっていました。
次の役割を内包しながら生きていました。
今を生きる私たちの行き先は死。
その道中、どうやって生命を使うか。
どうやって命を結ぶか。
ついつい平和にぽけーっと生きていると忘れやすいけれど、死は隣になんてなかった。
私たちは、いつだって死という宝物を内包しながら生きている。
私たちが内包しているこれはギフトだと、山に教えてもらいました。
このギフトをしっかりと抱きしめ、磨き、愛して、時が来たらしっかりと自分で選びとりたい。
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