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人間なんてみんなどっかちょっとずつおかしいんだから『言の葉の庭』

梅雨になると見たくなる映画
新海誠監督『言の葉の庭』

靴職人を目指す高校生タカオと年上女性が雨の日に新宿御苑で同じ時間を過ごす物語。雨の日だけ。

女性がものすごく繊細なのだけど、この物語も言葉が少なくて情景が綺麗で、そして繊細。光が、影が、よく見える。

わたし、まだ大丈夫なのかな

そうこぼす女性は、俗に言う適応障害みたいな状態かなと思う。私はなったことは無いけれど、うつ病も適応障害も、自律神経失調症も、私のすぐそばに潜んでいると、ずっとっずっと感じている。受診していないだけで、あの時もし受診していたら…と思うことは時々ある。

6月 梅雨
メンタル不調になる人が多いらしい。気圧の変化もあるけれど、陽が人間には必要だということを、梅雨のメンタルのニュースを聞く度に実感させられる。

心の弱さ、繊細さ。

元々の性格・性質由来のものもあれば、後天的になにか出来事がきっかけでそうなることもある。

周りへのアンテナセンサーが良いからこそ、ポジティブもネガティブも受け取ってしまう。頭の構造上、リスク回避のためにネガティブの方が記憶に残りやすいから、結果としてネガティブばかり記憶される。そこから内省と比較と理想の高さ故に、ギャップに苦しむことが多い。「やらなきゃ」が増えてさらに辛くなる。

だから、気がついたら、そうなっていたとなるんだろう。

わたしね、上手く歩けなくなっちゃったの。いつの間にか

たぶん、私は克服しつつある。というか現在進行形で克服しているような気がする。繊細さは持ったまま。

アダルトチルドレン(略:AC)みたいなものだろうか。子供の頃から「大人っぽいね」そんな雰囲気・オーラ・考え方を持っていたらしい幼少期のわたし。

その時から、私は何も変わってない気がする。
ずっと同じ場所に居続けている気がする。
成長なんてしていない。

そんな私たちは子供のうちに無駄に大人になってしまっていたような気がする。周りを気にした言動、考え方もそこに表れる。子供を経験していないような感覚。私な子供時代があったのかと考えないと出てこない。私にとっての子供は小学3年生までだ。そこから先は大人だった。僅か9歳から、根本の考えや行動は大きく変わっていないと思う。そんなの短すぎる。

27歳の私は、15歳のころも私より少しもかしこくない。私ばっかり、ずっと、同じ場所にいる

きっと子供の私は、心の中に押し殺してしまったのだ。大人は大人の皮を被っているだけなら、皆どこかに常に子供がいるはずなんだ。そのタイミングが子供と大人の切り替わり。

私の中の子供は最近少しずつ、現れてきた。
「これしたい」「あれやりたい」
子供らしいワガママを感じるようになったのは本当に最近のこと。彼と出会って少しずつその感じが増えてきた。彼といる時、ほんとに時々私の中の子供が出てくるようになった。

今までは相手の顔色伺ってのランチ
食べたいものがあっても相手にとって合わせてしまう。ジャンルも価格帯も、量も、その全てを。

まだそうする時があるけれど、彼といる時、伺くことは少なくなり、私の「食べたい」も良く見えてくるようになった。

私は9歳の時から同じ場所にいるのかもしれないけど、それで今はいいんだと思う。彼の前だけでも、子供でいればいいんだと思う。

人間なんてみんなどっかちょっとずつおかしいんだから

だから周りを気にしすぎる必要なんて無いんだと思う。分かっていてもそう、腑に落とすまでは難しいけどきっとそう。まともな人間なんてものは最初から存在しなくて、まともなフリをしているだけなんだ。隠して生きているだけなんだよ。きっと


◇◆◇


なんて、考えながら見れるようになりました。

今まではなんとなく共感してしまうだけだけど、たくさんのことを知ってきて、自分の大きさも分かるようになってきて、そんな今だから感じることも増えた。

繊細でいるのは大変
辛いし苦しいことの方が多く感じる

でもそれはそう感じるだけ
もっと自分のワガママを出してもいい
「今のままで十分だよ」なんて言っても受け入れられない言葉だけど、自分も受け入れられないけれど、本当にそうなんだと思う。


これは賛否両論の作品らしい。でもそんなことはどうだっていい。私には刺さる。刺さる人もいればいない人もいる。私は映像美とそこから汲み取れる空気感と少ない言葉で十分なんだ。文学らしい短編小説のようで、私はとても好きです。

雨が少しだけ、好きになった。新宿が少し、良いなと思える。

私は好きなおはなしです。

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