ドッグヴィル(2003年:監督:ラース・フォン・トリアー)【解ってないな。映画紹介が他人を赦すという考え方自体がそもそも傲慢なんだ。なぜ他人が自分と同じような道徳律を持っていると決めつける?】
書き割の舞台。
ここが家。
ここが彼女の家。
ここが犬。
チョークが舞台の上に書いてあり、
そこで錚々たる俳優たちが、
成り切り演技をする。
セット構築とか背景演出を、
節約というより排除している。
寓話劇。
セットを過度に簡略化したのは、
俳優たちの演技力だけですべてを表現するという、
意思の表れ。
そして、演技力だけで、
伝えたいテーマを伝えきるという自負の表明。
いやむしろ、
そこまでやらないといけない積極的な理由がある。
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とあるマフィア組織から逃げてきた女性は、
ある街に受けいられる。
そこで暴力のない平和で理想的な生活を生きていこうと考えるのだが。
・・・・・
グロ要素アリ、リョナ描写アリ、
ただ前述の書き割舞台のせいで、
陰惨というよりは、
ちょっと考えさせられる展開になる。
まあ、そういう制作側の意図なんだ。
ついていけない人にとっては、
はぁ? となる映画。
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なんでこれを取り上げたかというと、
少し前、このネタが流行っていて。
とあるコメンターが、
ハンナアーレントの「凡庸な悪」論を持ち出して、
こういう平凡さが恐ろしい。
いやちがう、それはナチズムの矮小化につながる。
ナチズムはやはり比肩しうるもののない偉大な悪なのだ。
という議論が巻き起こっていたようなんですが。
(;^ω^)
私の意見はと言うと、
私たちはすでにナチスである。
というものになります。
要するに暴力は偏在するということを言いたいのです。
私たちは半分ほど肉食動物なので、
常に他の生き物を食べて生きています。
ここでヴィーガンの人に対するいつもの批判も出てくるかもしれません。
ですが植物ですら他の生き物を踏みにじる過程を通して生きていきます。
邪魔な生き物は容赦なく毒で殺そうとする。
他者を殺そうとしない生物は存在しない、といっても間違いではないでしょう。
生物の世界では、暴力は生命性そのものと深く結びついています。
だから生きているモノが、何をしようと、
結局は他者への暴力につながる。
生きている限り、万物は構造的にそうならざるを得ない。
たとえ差別思想という価値観を持たなかったとしても、
結果的に地球の反対側で行われていることに沈黙する。
戦争に参加したくないという美名のもとで、
戦争に巻き込まれている人々を視界外に追いやる。
でも私はそれを非難しているわけではありません。
それらはどうしようもない場合もあります。
ただ、せめて自覚するべきでしょう。
私たちもまた、すでにこの時点で、
名前のない多くのアイヒマンたちなのです。
あなたが食べているものの背景に、
どれだけの死があることを、普段考えているでしょうか?
考えてないですよね。
悪意でそれらを傷つけようとしているわけでも無論ない。
そんなこと考えられない。
ただ生きているだけ。
私たちは凡庸な悪なのです。
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映画は、暴力の被害と加害が激しく入れ替わり。
そしてマフィアのボスが登場します。
彼は娘を優しく諭します。
「犬は犬なんだよ。
犬は暴力しか理解できない。
だから暴力が優しさになる場合があるんだ。
大抵は大人になるまでの間にそれを学習する。
お前は私に守られていたから、これまで知らなかったのかもしれない。
でも、いつかは学ぶ。
みんな、そうやって生きているからだ」
確か、そんなようなセリフだったような・・・
昔に観た映画なんで。
セリフうろ覚え。
という、考えさせられる映画の紹介でした。
でもそんな世界もなかなか悪くない。
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