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BAR seetin #シロクマ文芸部

 愛は犬のように、ボールを投げられればそちらへ向かってしまうものだ。



 婚約破棄って、実際に起こるんだよ。マンガやアニメみたいに造り物の中だけで起こるんじゃないんだよ。
 もちろんこれまでに挫折なんてしたことありませんって人生じゃあないけれど。
 婚約破棄って。人生の中でも最大級の挫折じゃん。ヒトの数だけある人生でも、実際に経験するヒトはそんなに多くないでしょう。
 本人も知らない許嫁がいましたー、しかもその許嫁がいわゆる“良いとこのお嬢様”でしたー、ごめんね僕はどうにもできないんだー、君とは結婚できませーん、って。だからマンガかって。
 どうしてそれが私の人生に起こるの。マンガの中で十分だって。そういうマンガを読んだことないんだけど。
 あ、それとも『君だけを愛してるよ』とか言ってるほうがマンガの世界だけなのかな。いやいや、婚約破棄のほうがよっぽど起こる可能性は低いよね。
 ああ、マスター、おかわり、ちょうだい。


 婚約者にフラれた女は馴染みのバーで、マスターに事の顛末を話した。
 もう既に涙は出ない。出し切った。散々泣いて喚いて、そのあと沸々と湧いた怒りを鎮めるためにここへ来たのだ。

「気持ちはわかるけどねぇ、飲み過ぎはよくないよ。まあ、提供している僕が言うことじゃないけどねぇ」
 柔らかくたしなめながら出されたビールを受け取って、女は少しふくれた面を見せる。
 マスターは意地悪く笑って続ける。
「僕にとっては“良いお客様”ってことだ」


 その後も女は何杯ものグラスを空にした。


 ねえねえ、マスター、婚約破棄なんてマンガみたいなことがあったわけだけど。
 もしかして、ここで酔い潰れて寝ちゃって、マスターに『閉店だよ』って起こされて、そしたらマスターがマスターじゃなくなってて、そこは異世界でしたー、みたいな展開になったりしないかな。なんかすんごい能力が身についてるっていう。
 いやいや、さすがにそんな展開はごめんしてほしい。
 もう、今、絶望状態じゃん。ありえない。さらに異世界に行っちゃうなんて、どれだけマンガみたいな人生だよってなるじゃん。いや、そういうマンガも読んだことないんだけど。


 女はもはやマスターが聞いていようがいまいが関係ない様子で話続ける。


 あ、でもさ、でもさ。
 異世界に行っちゃって、すんごい能力持ってて、そしたらなんだかわけわかんない偉いひとに求婚されちゃう、みたいなそんな展開になる可能性もあるかな。
 そんな展開だったら異世界でもいいなって思っちゃうね。いや、愛とか恋とかしばらくいいや、って感じなんだけど。でもアレでしょ、そういうのも伏線っていうか。そんなこと言っても結局はー、みたいな。
 っていうか、一回もそういうマンガ読んだことないけど、なんでこんなに異世界に転生しちゃう感じの展開が思い浮かぶんだろうね。フシギー。
 タイトルは『婚約破棄されたので酔い潰れて眠ったら異世界に飛ばされた?! 〜異世界で御曹司から求婚?!〜』とかだよ、たぶん。


 女は話続けていたが、マスターが他の客も相手をしていると、やがてカウンターに突っ伏して寝息を立て始めた。

「あーあ、寝ちゃった」
 マスターはひとり呟くとドアへ向かい、そこにかかる札を裏返す。

BAR seetin
CLOSE


 『閉店だよ』ねぇ――、
 さきほど女が言った言葉を思い出して少し微笑む。それは女が望む展開だろうか。確かに目覚めたら今までとは違う世界だったというのはわかりやすい。
「現実と異世界との境界は、どこだろうねぇ」

 
マスターは女に近づき身体を緩くゆする。

「閉店だよ」




#シロクマ文芸部 企画に参加しました。



私自身も異世界転生ものは読んだことがありません……
でも大体そういうあらすじかなぁって(勝手なイメージすみません)


読んでいただきありがとうございます。

2023.09.08 もげら


シロクマ文芸部 企画参加ショートショート:
街クジラ お題:「街クジラ」
今日は誰の日? お題:「私の日」
私の日制度、導入 お題:「私の日」
鍵穴を探している お題:「消えた鍵」
ピアノの秘密。 お題:「消えた鍵」
時計の針が止まるとき、それは食事の時間 お題:「食べる夜」
楽しい時間 お題:「書く時間」
平和が訪れるとき お題:「平和とは」
文芸部の友だち お題:「文芸部」
擬態語ウォーキング お題:「ただ歩く」
夏の終わりの勇姿 お題:「ヒマワリへ」
文化祭(俳句) お題:「文化祭」


練習 ショートショート:
君と何をしようかな
台風はアイスクリームを食べる
ペンギンのドライブ
Take A Step Forward.


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