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水玉消防団ヒストリー第13回 1981年 全国ツアー、すぺーすJORA閉店


取材・文◎吉岡洋美
協力◎地引雄一
 

ハイエースに機材を積み、26箇所のライブツアー

 
 ‘81年5月、1stアルバム『乙女の祈りはダッダッダッ!』を自分たちのレーベル「筋肉美女レコード」からリリースした水玉消防団。これと同時に、バンドはレコ発ツアーを行う。彼女たちのツアーは、毎回、機材を積み込んだ白いハイエースにメンバーたちが乗り込み、運転も自分たちで行う。そうして各地のライブハウスをまわる。
天鼓「と言うか、運転してたのは結局、免許と一番体力のある私(笑)。あとは可夜さんが時々。その頃はナビがないから地図を見ながら、メンバーともう1人マネジャー役の女性の6人でトヨタのハイエースに乗ってね。全員があまりにぐっすり寝てるのを見るとちょっとイラッとして運転席から『起きろー!』みたいな(笑)。‘81年のツアーは、割とLPが売れちゃってたから、その余波で色々な地方から声がかかったり、大きなフェスティバルが決まったり」
カムラ「地方の大きいイベントが決まれば、あとは前後でまわれそうな小さなところでライブする。例えば地方の変わったオーナーがいるジャズ喫茶、ロック喫茶やバーとか。当時、そういうお店が小さくても全国にあったの。店主がものすごいレコードコレクションを持ってて、地元の音楽好きが集うような、そんな文化がジャズを中心に日本の各地方で出来上がってた。パンクの人たちはそこにライブのアプローチをしたんだよね。まず、リザードあたりが開拓したと思うんだけど、最初は私たちもわからなくて、地方ツアーに詳しい地引(雄一)さんから『こことか出来るよ』って、全国のお店のリストをもらった記憶がある。当時のパンクバンドはそうやって情報源を皆で共有してたんですよ。だから面白いよね、地方のライブできる小さいお店のオッチャンたちが、ジャンルは違えど新しくて面白いものに理解あって、パンクの場を与えてくれていた。改めて当時のパンクシーンは、そういう“個”の共鳴で統合的に作られていたんだと思う」
 彼女たちは、この‘81年のツアーでは5月、6月、11月と3回にわたり、北陸、関東、名古屋、甲信越、関西、中国、九州まで実に26箇所をまわっている。もちろん、‘81年に限らず他の年も北海道、東北、四国と、全国津々浦々を精力的に訪れている。カムラも天鼓も、ツアーは「毎回、楽しいものだった」と振り返る。
カムラ「水玉のツアーは、ライブしに行くというより、皆で地方の温泉に行って、ついでにライブするようなもの(笑)」
天鼓「皆でツアーで色んなところに行って、色んな人に会って、毎回何かしら試せることもあったし」
 地方だからこそ、水玉消防団のライブに足を運ぶような人は、「不思議な人も多くて」(天鼓)、それが楽しみなことでもあったと言う。
天鼓「その頃も今も、私たちのようなバンドなんて他にいない。だから行く先々で反応も面白い。山口では暗いライブハウスでサングラスをかけた謎の親子連れが二人で来たり、高知で反原発のイベントに出たときは、喜納昌吉さんも一緒で、私たちの出番が終わるなり『奇妙な、奇妙なエネルギーです』って言いにきて“褒めてるの? ケナしてるの?”って(笑)」

〔上〕広島でのライブ。〔中〕高知の野外イベントでのステージ。〔下〕全国のツアーを共にするハイエースと可夜

カムラ「大阪・阿倍野のライブハウス“マントヒヒ”も強烈だった。お店に到着したら、平日の昼間からお客だかなんだか、背広にネクタイのサラリーマン風の男がスピーカーに頭を突っ込んで踊ってる(笑)。多分、昔遊郭だったような日本家屋を改装してて、楽屋の2階から階段を降りて普通に襖を開けたらステージ(笑)。しかも、ステージが狭い」
天鼓「もし、あれをステージと呼ぶなら3〜4畳半のタタミ空間で、もう、狭いなんてもんじゃない。襖を開けたらすぐ目の前30センチぐらいのところに面と向かってに客の顔(笑)。その上、ギッチギチに人が入ってて客が一斉に飛び跳ねてるの。前座の地元関西のパンクバンドの男の子が『跳ねとらんかい!』って客に号令かけてて(笑)」
カムラ「そう、『水玉の人が演奏するのに、お前ら気合い入っとらんやないか!』って大声で教育的指導してる(笑)。しかも興奮して鼻血出しながら(笑)。満員客は皆、目の前でガンガン飛び跳ねてるわ、号令かけてる男の子は流血だわ、誰かのギターは当たりそうだし、もう、この世のものとは思えないギグだった(笑)。大分に行ったときは前座をやってくれたバンドに、実は若かりしdoravideoの一楽儀光さんがいたことを最近知って驚いたり」
 

‘83年、天鼓とカムラがハネムーンズでライブしたときの大阪・マントヒヒのステージ。襖をバックに所狭しとひしめく機材、隙間に入り込むドラム!

   
 “温泉ついでにライブ”と言えども、ツアーに出たら大抵連日のように「客が何人であろうと変わらない」(天鼓)迫力でライブし、地方の現場でも存在感を残していく。
 この‘81年頃は、彼女たちも自主レーベル「筋肉美女レコード」を立ち上げたように、国内のパンク、ニューウェイヴシーンではシンクロするように自主レーベル*が活発化していた。そんななか、水玉消防団は最早「シーンの顔」的存在にもなっていく。毎回、独自性に富んだ迫力あるライブを安定して行い、天鼓もカムラも、現場のなかで「女性だからというアウェイを感じたことはない」と言う。
天鼓「音楽という意味ではライブでアウェイ感は全然なかった。女扱いされたこともないし、なぜか男扱いされたことはある(笑)。たまに出くわすタチの悪い酔っ払いとかは別だけど、基本的に演奏が受け止められてることをステージでは感じていたし、自分もステージで“女だから”と思ってやってるわけじゃないしね。ステージに出た瞬間、私は演奏をする人だけど“ここに皆と一緒いる”という気持ちでいつもライブしてた。まあ、色んな人が色んなところで、それなりのインパクトで見てたんだろうな、とは思うけど」
カムラ「水玉は、ライブを見るまでは“女のバンド?”って思われても、いったんステージに出れば性別は関係ないって感じだったし、そういう存在感を皆、知ってくれてるようになってた。だから、トンチンカンな態度をとる人はいなかった。当時私たちのライブを名古屋で見ていたと言うアシッド・マザーズ・テンプルの河端一くんも『水玉はめちゃくちゃかっこいいバリバリのロックバンド』って思ってくれてたようで、何ていうかシーンの人たちは男女問わずフレンドリーだったよね」

 

〔上〕’81年7/13の新宿ロフトでのステージ。最早、パンク、ニューウェイブシーンの顔として風格が漂いはじめた頃。〔中〕目力で秒殺しそうな天鼓。〔下〕ロングスケールのベースが板に付くようになったカムラ(左)と、サングラスがトレードマークのギターのまなこ[撮影:地引雄一]

 

「女」「30過ぎ」「結婚もしない」ステレオタイプの取材

 
 音楽の現場、シーンで性差なく評価を得ていくなか、むしろ、「アウェイ」は音楽以外のある場所で感じることが多かったと言う。それは、この‘81年頃から増えはじめたメディア取材だった。
 女性パンクバンドとしてツアーもレーベルもDIYを実践する水玉消防団は、異色の存在として注目されやすく、当時、段々と一般誌などの雑誌やTV等でも取り上げられるようになっていた。「名前が全国区になりはじめた」(カムラ)のはこの頃で、本連載第0回で触れたように、筆者が水玉消防団が紹介された深夜番組をTVで見たのも同時期だ。そして、ほとんどの取材での取り上げられ方は「大抵、パターンが決まってた」と、二人とも口を揃える。
天鼓「本当にインタビューや取材がしょっちゅう行われるようになって、でも、いつも聞かれることは最初から決まってる。『何で女が30過ぎて?』『どうして誰も結婚しないんですか?』。そういう質問をするのは決まって男性記者。そんな人がいっぱいいたよね。一般誌でも音楽誌でさえも」
カムラ「シーンのなかの雑誌やミニコミは同志のようなものだったから別として、特にメジャー系のメディアは酷かったと言わざるを得ない。取り上げられても、いつもキワモノ的なネタにされることの方が多かった。 “音楽でこういうことをやってる”じゃなくて、メイクも奇抜だからか、“30過ぎの独身の女の人たちが、こんな変なことをやってる”というようなことが大抵、大袈裟な見出しになっている。女性誌だろうと似たような扱いだったよ」
 
 この象徴的な話として、カムラはフレッド・フリスが当時来日したときに出くわした、水玉消防団についてのあるエピソードを教えてもらったと言う。それは、彼が水玉消防団を見るために都内のライブハウスを訪れたときのことだ。
カムラ「フレッドのすぐ前にいたアメリカ人らしき白人男性客が、水玉が始まる前、アテンド風の日本人男性に『次のバンドの特徴は何なの?』って尋ねてたらしいの。日本人男性はこう伝えたと。『They are all women.They are all over 30.And none of them are married.(全員女性で、30歳超えてて、誰も結婚していない)』」
 独自性溢れる音楽を作り出し、圧倒的なパフォーマンスを行なっていても、そのことは何ひとつ触れず、バンドの特徴は“女”にまつわる色眼鏡が先行するわけだ。
カムラ「結局、メディア取材も一緒。歌詞や音楽性のことを聞かれたことなんてほとんどない。じゃあ、取材者言うところの“女なのに”の延長でフェミニズムに興味を示すような質問だったら、私たちもその切り口で答えるだろうけど、そんなことも滅多にない。奇抜な外見の質問も多くて、段々皆、『ああ、また取材あるの? 大体同じことを聞かれるんだろうけどね』と面倒くさがるようになってた」
天鼓「あまりにもイメージが短絡的で、『かんべんしてよ』ってのは、本当にしょっちゅうだった。私たちも普通のロックの形態のバンドとは違うし、流行りの音楽をやってるわけじゃないし、よっぽどそういった音楽好きの人でない限り、ちゃんとした質問はできなかったよね。当時ロックバンドをやってる子たちの主流は、普通10代〜20代前半ぐらいで、女性バンドも皆、若いわけでしょ? だから、(取材する)向こうもやりにくいと言えばやりにくいんだろうけどね」
カムラ「今の若い子たちにはわからないかもしれないけど、あの頃の30歳って、極端に言えば今の60歳ぐらいの感覚があった。当時30歳でバンドを始めたってのは、還暦で始めたのと似たようなものがあったのよ、今思えば。だから、ことさら“30歳“って強調もされた。本当に辟易したよね」
 ‘80年代に入り女性が自分を表現しはじめ、いかにも以前より着目されるようになったと見えつつ、「実際の世間的な意識なんてそんなもの」(カムラ)でもあったのである。 
天鼓「知り合いの男性ミュージシャンに、“何でギター始めたの?”、“バンドを始めたのはどうして?”とか質問するでしょ。すると答えは決まって『そりゃあ、モテたかったから』なんです。男はモテたくて楽器やバンドを始める。でも、女は? 有名になりたいとかは男女共通であるかもしれないけど、80年代当時、人気なんて望めなさそうな若くもない女たちがロックバンドをやってる。これはもう男たちから見ると世界七不思議の一つぐらい驚きだったのかもしれない」

 ライブハウスでの水玉消防団の楽屋は、5人の女たちが化粧したり着替えたり、曲を練習して準備しながら、途切れなくギャグや笑いが飛び交う。
天鼓「ふざけてばっかりいたから、取材に来たカメラマンや記者の人によくびっくりされた。『アルバムはヘビーな曲ばっかりだし、もっとみなさんシリアスで無口なのかと思ってました』とか言われてね」
カムラ「曲、ステージと楽屋の印象が全く違うとは、確かによく言われたよね、私たちは(笑)」 
 モテようと思ってバンドを始めたわけじゃない。奇抜な格好をしても、言いたいことを歌詞に乗せても大声で叫んでも、一般的には“女らしくない”考えを持っても、この5人のメンバーなら誰も文句を言わない。誰も反対しない。「むしろ、“やれっ!”“やろう、やろう!”と声援が入る」(天鼓)。
 これが、楽しくないわけがないのである。
 

早稲田「すぺーすJORA」の閉店

 

 ところで、’81年はデビューアルバムをリリースした5月と同時期、水玉消防団にはひとつの転換があった。それは、’79年に天鼓、カムラ、可夜、まなこの4人でオープンし、水玉消防団を生むことにもなった早稲田の「すぺーすJORA」の閉店だった。
天鼓「オープン当初から3年契約で、’81年に満期になったけど契約更新しなかったんですよ。黒字経営だったわけでもなかったしね」
カムラ「赤字は出してなかったはずで、トントンというかギリギリ。皆で話し合って、確か天鼓が言ったと思うんだけど、『せめて1人分ぐらいの給料が出るぐらいだったら継続を考えるけど、それも出てない』と」
 実はJORAを経営しながら4人とも生活のため、それぞれフリーランスの仕事やバイトも行なっており、店の家賃を浮かすためにJORAの入っていたエスペラント会館のビル清掃も月イチ、請け負っていた。
カムラ「その掃除が皆、嫌でね(笑)。でも、その甲斐あって、毎月家賃は払えてて、経費もギリギリまわしてたし、“誰かがお金をかぶらないとやっていけない”なんてことにはなってなかった。だから、“もう、3年やったからいいか”って、誰も悲壮感はなかった。皆、ビジネスセンスはゼロだったしね(笑)」
 事実、「Good-by JORA」と題された閉店の挨拶文には、経営者4人のそれぞれの文章が掲載され、天鼓は「こんなに勝手気ままにリラックスしてやれるなんてウソみたいな3年間だった」、カムラは「思いつきで思いきり遊んでしまって、好き勝手にやってしまったことを、どうまとめればいいんだろう?」、可夜は「解散でもなく、倒産でもなく、ましてや発展的解消などというあいまいな言葉でもなく、まさに『卒業』なのだ」、まなこは「ヤッタゼ!! オメデトウ。うれしい、何かを終えるとき、“うれしい”と手離しで喜べたことがなかったので、なぜかうれしい」と、自分たちの可能性をも自由に試せた場の終了に向けて、どこか祝祭感さえ漂う。もちろん、それには「水玉消防団」というバンドの存在が大きい。
カムラ「水玉消防団が誕生して、‘80年の1年でバンドが音楽的にも成長したのは、間違いなくJORAがあったから。楽器も弾けない人たちが、平日毎日のように昼間からカフェの仕込みが始まる夕方前ぐらいまでの3〜4時間、ウダウダと自由に皆で楽器を弾いていられる環境にあったのは、本当に贅沢なことだった。そうするうちに結局、バンドが面白くて忙しくなって、JORAより水玉の活動のほうが多くなっていく。“ツアーで1週間休みます”って平気で店を閉めたりするんだから、そりゃ経営者としてはダメでしょ(笑)。それなら『JORAのほうを頑張らなくてもいいんじゃない?』という感じだったんですよ。やっぱり、私たちはビジネスよりバンドという楽しいことをとったわけ(笑)」
 オープン時から開催されていた東郷健主催のゲイ・パーティーや、レズビアンのパーティー、小西綾・駒尺喜美による女性イベント、竹田賢一主催の即興ワークショップ「ヴェッダ・ミュージック・ワークショップ」等は、「ずっとレギュラーイベントとして続いてて、面白いことはやり続けていたんだよね」と、カムラも振り返るように、3年の月日のなかでさまざまなマイノリティの受け皿、先進的な実験場として機能し続けていたJORAは、盛大にクロージング・パーティーを行い、「シリアスさは全くない」(天鼓)まま、’81年5月末、幕を閉じたのである。
 

*’80〜’81年頃、地引雄一の「テレグラフ」、吉祥寺マイナーの「ピナコテカ」、スターリンの「ポリティカル」、吉野大作の「アルタミラ」、関西の「アンバランス」、スター・クラブの「クラブ・ザ・スター」等々、自主制作レーベルが多く誕生した。’81年8/24〜29の6日間+オールナイトで、これらの自主レーベル・アーティスト、バンドが総登場したイベント「FLIGHT 7 DAYS」が’81年新宿ロフトで開催され、盛況となる。水玉消防団も「筋肉美女レコード」として出演した。

〔上〕〔下〕新宿ロフトで行われた自主制作レーベルのイベント「FLIGHT 7 DAYS」で、’81年8/25に出演した水玉消防団のステージ。この日はテレグラフ・レーベルからチャンス・オペレーション、クラゲイル・レーベルからPTA’sらが共演した。[撮影:地引雄一]

 
●天鼓 1978年より女性のみのパンクロックバンド、水玉消防団で音楽活動を開始、80年代のニューウェイヴシーンで10年間活動を行う。同時に80年代初頭にNYの即興演奏に誘発され、声によるデュオの即興ユニット、ハネムーンズをカムラと結成、活動開始。その後、ソリストとして活動を続けるうち、86年頃よりヴォーカリストではなく「ヴォイス・パフォーマー」と称するようになる。「声を楽器に近づけるのではなく、より肉体に近づけるスタンス。あるいは声と肉体の関係を音楽のクリシェを介さずに見つめる視点。“彼女以前”と“以降”とでは、欧米における即興ヴォイスそのものの質が大きく変質した」(大友良英)。85年のメールス・ジャズ・フェス(ドイツ)以降、世界20カ国以上でのフェスティバルに招聘されている。これまでの主な共演者は、フレッド・フリス、ジョン・ゾーン、森郁恵、大友良英、内橋和久、一楽儀光、巻上公一、高橋悠治など。舞踏の白桃房ほかダンス、演劇グループとの共演も多い。水玉消防団以降のバンドとしては、ドラゴンブルー(with 大友良英、今堀恒雄 他)アヴァンギャリオン(with 内橋和久、吉田達也 他)などがある。15枚のアルバム(LP /CD)が日本・アメリカ・カナダ・スイス・フランス・香港などでリリースされている。演奏活動の他、各地で即興・ヴォイスや彫塑、空間ダイナミックスなどのワークショップを数多く行っている。
 
◆天鼓 ライブ情報
 
11/1(水)
「Over The Rainbow」 坂田明+天鼓デュオ
@アートスペース&カフェ(足利)


 
11/3(金)
「宇川直宏展 FINAL MEDIA THERAPIST @ DOMMUNE」
@練馬区立美術館 (11/5GIGANOISEプレイベント)

 
11/5(日)
「GIGANOISE vol.112」
@秋葉原CLUB GOODMAN
出演/灰野敬二、天鼓、美川俊治、田中悠美子、原田仁、武田理沙、MADZINE、吉田隆一、森田潤、香村かおり、安永桃瀬、Dave Skipper 、Deja、DOKKAEBI、TonyUnm、MIYA、YI SEUNGGYU 、doravideo 他

 
●カムラアツコ 80年代、日本初の女性パンクバンド「水玉消防団」で、ボーカリスト、ベーシストとして音楽活動開始。日本パンクシーンの一翼を担う。同時に天鼓との即興ボーカル・デュオ「ハネムーンズ」にて、ニューヨーク、モントリオール、ヨーロッパで公演、ジョン・ゾーンはじめニューヨーク・インプロバイザー等と共演。その後、英国に渡りポップグループ「フランクチキンズ」でホーキ・カズコとペアを組む。オーストラリアを始め、ニュージーランド、アメリカ、カナダ、ヨーロッパ、ソビエトなどツアー。90年代は、ロンドンで始まったレイブシーンでダンスミュージックの洗礼を受ける。2000年以降、「I am a Kamura」、「Setsubun bean unit」でフォーク、エスニック、ジャズ音楽の領域に挑戦。現在の自身のプロジェクト「Kamura Obscura」では、Melt, Socrates' Garden、Speleologyのアルバムをリリース。エレクトロニクス、サウンドスケープ、即興の渾然一体となったさらに実験的な新作「4AM Diary」を2021年末にリリース。同年秋、イギリスのポストパンクバンドNightingalesの満席完売全国ツアーをサポートする。2019年にはバーミンガムの映画祭Flat Pack Film Festival、2022年10月にはポルトガル・セトバルの映画祭Cinema Charlot, in Setubal, Portugal にて、日本の前衛映画の名作「狂った一頁」の弁士を務めた。
 
◆カムラ ライブ情報
10/20(金) 
梅津和時&KIKI BAND in London
@Off the Cuff(London)
supported by Kamura Obscura, Yumi Hara, etc

 
11/8(水)
舞踏UK ツアー 上杉満代舞踏公演 in Birmingham
Live music:Kamura Obscura
 
 
●水玉消防団 70年代末結成された女性5人によるロックバンド。1981年にクラウド・ファンディングでリリースした自主制作盤『乙女の祈りはダッダッダ!』は、発売数ヶ月で2千枚を売り上げ、東京ロッカーズをはじめとするDIYパンクシーンの一翼となリ、都内のライブハウスを中心に反原発や女の祭りなどの各地のフェスティバル、大学祭、九州から北海道までのツアー、京大西部講堂や内田裕也年末オールナイトなど多数ライブ出演する。80年代には、リザード、じゃがたら、スターリンなどや、女性バンドのゼルダ、ノンバンドなどとの共演も多く、85年にはセカンドアルバム『満天に赤い花びら』をフレッド・フリスとの共同プロデュースで制作。両アルバムは共に自身のレーベル筋肉美女より発売され、91年に2枚組のCDに。天鼓はNYの即興シーンに触発され、カムラとヴォイスデュオ「ハネムーンズ」結成。水玉の活動と並行して、主に即興が中心のライブ活動を展開。82年には竹田賢一と共同プロデュースによるアルバム『笑う神話』を発表。NYインプロバイザーとの共演も多く、ヨーロッパツアーなども行う。水玉消防団は89年までオリジナルメンバーで活動を続け、その後、カムラはロンドンで、天鼓はヨーロッパのフェスやNY、東京でバンドやユニット、ソロ活動などを続ける。
 
 ◆天鼓 Official Site

天鼓の公式サイト。ヴォイスパフォーマーとしての活動記録、水玉消防団を含むディスコグラフィーなど。

Kamura Obscura

カムラの現プロジェクト「Kamura Obscura」の公式サイト。現在の活動情報、水玉消防団を含むディスコグラフィー、動画など。

◆水玉消防団ヒストリー バックナンバー


 
 


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