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水玉消防団ヒストリー第16回 1986—1988年 カムラ山猫、天鼓ソロアルバム、水玉活動休止


取材・文◎吉岡洋美
協力◎糸川耀史、松永もうこ


 
 水玉消防団はセカンドアルバムを発表し、天鼓はメールスで大喝采を浴びた翌1986年。海外からオファーを受けることが多くなった天⿎は、ソロのヴォイスパフォーマーとしても国内外で忙しい日々を送るようになっていた。
天鼓「メールスのあとはNYノイズのミュージシャンたちと、ほとんど毎年のようにどこに行っても会うような感じでしたよね。日本以外のライブが多くなって、ヨーロッパから頻繁に声がかかるようになって、デヴィッド・モスのバンドのメンバーとしてだったり、フレッド・フリスとのデュオ、自分でもグループをつくってツアーに行ったり」
 ‘86年、天鼓とカムラのハネムーンズも、NYのCBGBはじめ、ヨーロッパでもライブを重ねることになり、同行した水玉マネジャーの松永もうこ曰く「ハネムーンズはNYでもライブは大盛り上がりでスタンディングオベーション。ライブ後、二人に会いたいと楽屋に列ができた」ほど、評判を博していた。
 

カムラ、リーダーバンド“山猫”結成


 
 即興の世界に突き進んでいく天鼓だが、一方カムラも水玉のライブ、ハネムーンズの即興ライブを行いながらも、1986年に変化が起きていた。それは、もともと真正ロック少女でもある彼女の、水玉消防団以外のロックバンド結成だった。
カムラ「水玉でもハネムーンズでも、やっぱり新しい音楽を作りたいし、それは今も自分の音楽活動の信条として続いている。だけど、それとは別に、そもそも私はオールドスクールのロックも好きなのよ。そういう音楽で育ってきたわけだから。水玉やハネムーンズをやりながらも、オーソドックスなロックも作りたかった」
 実験性も豊かで先進的な音楽活動を行いながらも、自分なりにバンドでロックを追求して形にしたい——。この目論見のため、自身のバンドを作ることを思い立ったカムラが、まず、最初に声をかけたのは、元スピードのメンバーで、当時ツネマツマサトシのEDPSでドラムを叩いていたボーイだ。水玉の練習場だったスタジオテレコムで既に懇意になっていた仲である。
カムラ「EDPSのライブを見たときから、ビートのかっこよさにショックを受けてた。ボーイは私も好きだったクリームあたりも好きで、割と古典的趣味のところもあったのね。彼のドラムと一緒に組みたいと、すぐに声をかけたの」

●EDPS(1984 Live@新宿ロフト)

 
 そうして’86年、カムラのリーダーバンドが結成される。バンド名は「山猫」。当初はカムラのヴォーカル、ボーイのドラムに、ギター、ベース、キーボードを加えて5人編成でスタートしたものの「どうも、まとまらなくて」(カムラ)、ボーイと思案した末、1987年からボーイの親友のベーシスト、イデを迎え、カムラ(vo,g)、ボーイ(d)、イデ(b)の3ピースバンドに固まった。
カムラ「水玉でやってるベースとヴォーカルって、とっても面白いんだけど、やっぱり歌に制限があるんですよ。ベースを凝れば凝るほど歌が難しくなる。水玉のセカンドアルバムリリースのこの頃は、いつもの水玉のライブでも歌とベースが両立しづらくなっていて、もっと自由に歌えるようになりたいという気持ちがあったのね。それで、山猫での私の担当はギター+ヴォーカルにした。なんせボーイのドラムとイデくんのベースだけで音は十分成立してたし、ギターはノイズ的に弾く感じでもいいや、と。それでいてハードなロックというか、昔のロックパターンを突き詰めたバンドにしたかった。やっぱり、その世界観は水玉ではできないことだから」
 山猫は都内のライブハウスで活動を行いはじめるが、「とにかくギグをやりたかった」とカムラは言う。
 実は山猫を結成した理由として「ライブをやりたい」という、そんなシンプルな欲求もカムラにはあった。というのも、’86年あたりから、天鼓のみならず各メンバーそれぞれが多忙になり、水玉消防団のライヴも以前のように回数を重ねにくくなっていたのだ。
カムラ「可夜さんは山口小夜子さんのマネジャーだった本木昭子さんの事務所で働くようになって多忙を極めてたし、みやもとSANはもともと学校の美術教師をやってるわけで、以前より皆の調整が難しくなっていった。天鼓は海外のライブが多くなってハネムーンズもあまりできない。だけど自分はギグをやりたい。音楽をやりたかったんですよ」

  ちなみに、筆者はカムラから1988年の山猫のライブ音源を聴かせてもらったことがある。当時、高円寺に滞在していたジョン・ゾーンが当日急きょ参加したという、その日限りの4人編成のライブで、カムラが曲を作っていたというロックチューンを、4人のテンションがせめぎ合うようにプレイする爆発力、かつタイトなロックサウンド。確かにカムラのヴォーカルは王道ロックのかっこ良さを体現するような、水玉とはまた違った魅力とエネルギーにあふれていた。
カムラ「今思えば、山猫は水玉と違ってロックの枠組のなかの古い感性のバンドだったかもしれないけど、バンドとしてロックのビートの気持ちよさがあった。それはやってみないと味わえないものだったし、やる価値はあったと思ってる」

 ●山猫(1993年 再結成Live@原宿クロコダイル)

カムラ(vo)、ボーイ(d)、イデ(b)、ヒゴヒロシ(g)、ラピス(g)

 
 もともと舞踏のスタジオに通い、竹田賢一主催の即興ワークショップ、ヴェッダ・ミュージック・ワークショップにも参加していたカムラ。ハネムーンズのパフォーマンスももちろん、即興パフォーマンスは楽しく、身に付いたものだが、「バンド」という形式や音楽の持つポピュラリティも彼女にとっては、捨てれない重要な要素でもあった。
カムラ「いろいろなタイプのミュージシャンがいると思うけど、私にとってフリーで実験的な表現は大好きだし大切なもの。その一方で、“バンド”というかたち、スタイルのあるもののポップ感も大好き。相反するようなものだけど、自分にとっては両方の要素は両翼のように必要。私はそういうタイプなんだよね」
 実験精神も音楽の持つ様式美も大切。このカムラの嗜好性は、後にある音楽ユニット参加へと導かれることになる。

 

天鼓、ソロアルバム『SLOPE』リリース

 

 それぞれメンバー自身の仕事、活動が充実し、忙しくなっていたこの頃、天鼓はフレッド・フリスとの共同プロデュースで1987年4月、ソロアルバムを筋肉美女レコードからリリースする。『SLOPE ゆるやかな消失』と題されたこのアルバムは、クリスチャン・マークレー、デヴィッド・モス、トム・コラ、ウェイン・ホロヴィッツ、アート・リンゼイ、ネッド・ローザンバーグ、ジーナ・パーキンス等々、まさに天鼓が「ほとんど毎年のようにどこに行っても会う」ほど、交流を重ねていたNYノイズのアーティストたちに加え、ヴォイスでカムラも参加するという顔ぶれ。この曲者、強者しかいない音楽家たちの縦横無尽な演奏に、天鼓はおもねることなく主役として屹立したヴォイス、歌をさまざまな表情で繰り広げる圧巻の作品だ。当時のNYノイズのなかでの天鼓の存在感がリアルにうかがい知れる。

天鼓の初のソロアルバム「SLOPE ゆるやかな消失」ジャケット。表ジャケのド迫力ポートレートは、「あとで知ったんだけど、江口寿史さんや上條淳士さんの漫画ネタにもなってた(笑)」(天鼓)。撮影は、なんとあのアラーキー、荒木経惟。

 
 
天鼓「ソロは、NYで録ってみたいということと、フレッドにプロデュースを頼んでNYの色々な人とやってみたいというのがあったんです。参加メンバーは大体は皆、顔見知りなんですよ。結構なメンツ? 今になってみるとそうですよね。でも、あの頃の私の知り合いって、ああいうメンバーしかいなかったというのもある」
 レコーディングは86年NYに2ヶ月滞在した際、短期間で行われたという。エンジニアを担当したのは、NYゴングはじめ、ダウンタウンで先進的な音楽活動を行い、音楽プロデューサーとしても名を馳せることになるクレイマー。当時、設立して間もない彼のスタジオ「ノイズ・ニューヨーク」で執り行われた。
天鼓「レコーディングはすごく面白くて、日本と全然違うというか、私にとっては楽。クレイマーは後に相当有名になった人ですけど、彼は録音技術がどうこうというより感性で作るという感じなんですね。“雑音が入らないように”とか、そういうことに神経質なるようなところが全然ない。私が“ここは違うな”と思って言ったことについても『じゃあ、こういう風に音を広げようか』と、アドバイスをくれる。日本だと、音はきっちりと録ってくれるんだけど技術的なこだわりが強くて、レコーディングというものに対する固定概念から外れない。こっちの求めるものがわかってもらえないことも多かったんですね。でも、NYではミュージシャンのこだわりが、まず優先される。日本のようなきっちりしたスタジオじゃなくて個人スタジオも多いから、場の空気がそもそも違うってのもあるかもしれない。クレイマーは昼間からスタジオで寝てることも結構あって、『そろそろ起きて』『ああ、はーい…』って感じ(笑)。だからと言って、決して仕事が出来ないわけじゃない。すごく腕のあるエンジニア。でも皆、割とそういう空気感でしたよね。クレイマーのところじゃないけど、階下にジャグジー風呂があるスタジオがあってびっくりしたり、スタジオやミキサーはそれぞれ個性的だった。その分、クセも強いってことだけど、楽しかったですよ」

 

天鼓の出産、水玉消防団活動休止、新しい音楽世界へ

 

 ところで、音楽活動以外でも天鼓には変化が起きていた。天鼓のお腹には新たな命が宿り、’87年5月に出産予定となったのだ。この天鼓の妊娠・出産のため、水玉消防団の活動は’87年3月の原宿クロコダイルのライブをもって小休止となる。
天鼓「そう、私の出産を控えて一時活動休止。この休止前に行った3月のライブのときはもう8ヶ月で足元も見えないくらいお腹もかなり大きくなってたから、皆に『本当にライブして大丈夫なの?』と心配された。ギターをお腹の上に乗っけて弾くって感じで(笑)。でも、その頃までスタジオで(バンドの)練習をしていたんですね。“こんな大きい音を赤ん坊に聴かせていいのだろうか”と思いつつ。水玉消防団で胎教? やばいでしょ、これは」

‘86年のNYでの天鼓、ハネムーンズのライブリポートとともに、水玉消防団の活動一時休止を伝えるファン通信「筋美連通信」。休止を伝えつつも、メンバーそれぞれ充実した活動、仕事を行なっているのが近況からうかがい知れる。

  このライブの2ヶ月後、ソロアルバムもリリースされたあと、天鼓も無事出産。水玉消防団はこの’87年を分岐点にライブ回数を減らしていく。そして’88年、バンド活動そのものを休止することになる。「多分、私の記憶では’88年の渋谷クアトロのライブが最後だったんじゃないかと思う。このライブで休止しますっていうつもりもなくて、結果的にそうなったというか」(天鼓)。ちなみに、この時の対バンは以前にも一度対バンを組んだことのある米米クラブだった。
 水玉の音楽的マネジメントの役割もあった天鼓が子育てしながらも、「ヨーロッパツアーでしょっちゅうライブするようになって、子どもの世話はあるわで、水玉まで手がまわらなくなった」(天鼓)ことに加え、メンバー個々のさらなる仕事、活動の充実も重なっていった頃だ。「水玉消防団はこの先どうなるか、わからなかったから解散とは言わなかったけど、実質的に活動を続けるのが難しくなっていた」(天鼓)。
 そして、「皆で“やめようか”という話をしたわけではないけど」、水玉消防団は自然消滅的に「活動休止」となったわけである。

  天鼓は、やはり「即興演奏の要請が増えていったし、何よりいろんなミュージシャンと演奏して自分を拡張してく感触が面白くなっちゃった」と、当時の自身の音楽活動への興味も正直に振り返る。
天鼓「申し訳なかったけど、水玉のファンだった人から見れば、私が即興演奏の方向に行ってしまったというのが(休止の)一番大きい原因だと思ってるんじゃないかな。確かにそれは当たっている。ヨーロッパでライブをやれば観客数も違うし、ツアーもできるし。その頃はNYのメンバーとばかりやってたけど、とにかく即興演奏は誕生して新しい音楽世界だったから、そこに立ち会っているという感動もあった。“演奏することそのものが冒険であり、楽しみ”というのもあった。出産後のツアーは子どもが6ヶ月ぐらいからやってたかな。子どもの2〜3歳までは大変じゃないですか。連れて歩くことも多くて、オムツを持って乳幼児を抱えてのツアー。だから、ライブやフェスティバルの出演契約書に“要ベビーシッター”と書いて、演奏時間に見ててもらうわけ。子どもは世界中の人にお世話になってる。私の母や友人たちも含めて。今思っても、あの頃はめいいっぱいだった。ただ、音楽的なことで言うと、バンドも即興も私のなかではそれぞれに同じように大好きなもので、全然、途切れてないんだけどね」

‘85年ごろ、大阪の情報誌インタビューのため、写真家・糸川耀史とフォトセッションした水玉消防団。「水玉消防団のやっていたことは、当時の女性文化の先端だった。ファッションもメイクも斬新で彼女たちのような存在は他にいなかったですよね」(糸川)[撮影:糸川耀史]

 
 カムラは「時代もどんどん変わっていってた」と、休止当時の音楽シーンの変化にも触れる。
カムラ「リザードも活動休止したころで、以前のシーンの顔的バンドのギグ自体がなくなっていた。TVでは“イカ天”とかが始まって、バンドシーンの状況もお客さんも変わっていく。あの突然段ボールが、状況を打破するためにイカ天に出たぐらいだからね。確かに、毎月、毎週のようにやってた水玉のライブも、’86年ぐらいから年に2〜3回ぐらいになってたしね。基本的に水玉はオファーのあるライブをやる、って感じだったけど、自分たちで自主的にライブする方向に行っても、今度は皆の時間が合わない。状況としては私たちもそろそろ(休止の方向)だった」

 ほとんどのメンバーがロックのこともバンドのことも楽器のことも知らないまま「いつの間にか出来上がっていた」バンド。活動するごとにメンバーのエネルギーのまま、何にも染まらない独自の音楽を作り出し、気づけばシーンの顔、ベテランバンドになっていた水玉消防団。’88年の最後のライブは、’78年の結成から実に10年目だった。
 
                ◇
 
「でも、私は音楽を続けたかったんだよね」と言うカムラは、ほどなくしてある出会いから渡英し、ロンドンのTVを沸かせる存在になる。次回は、カムラがその後の自身の活動、そして現在を語る。

糸川とのフォトセッション。上から天鼓、カムラ、可夜、まなこ、みやもとSAN。[撮影:糸川耀史]


[撮影:糸川耀史]


 
 
●天鼓  1978年より女性のみのパンクロックバンド、水玉消防団で音楽活動を開始、80年代のニューウェイヴシーンで10年間活動を行う。同時に80年代初頭にNYの即興演奏に誘発され、声によるデュオの即興ユニット、ハネムーンズをカムラと結成、活動開始。その後、ソリストとして活動を続けるうち、85年頃よりヴォーカリストではなく「ヴォイス・パフォーマー」と称するようになる。「声を楽器に近づけるのではなく、より肉体に近づけるスタンス。あるいは声と肉体の関係を音楽のクリシェを介さずに見つめる視点。“彼女以前”と“以降”とでは、欧米における即興ヴォイスそのものの質が大きく変質した」(大友良英)。85年のメールス・ジャズ・フェス(ドイツ)以降、世界20カ国以上でのフェスティバルに招聘されている。これまでの主な共演者は、フレッド・フリス、ジョン・ゾーン、森郁恵、大友良英、内橋和久、一楽儀光、巻上公一、高橋悠治など。舞踏の白桃房ほかダンス、演劇グループとの共演も多い。水玉消防団以降のバンドとしては、ドラゴンブルー(with 大友良英、今堀恒雄 他)アヴァンギャリオン(with 内橋和久、吉田達也 他)などがある。15枚のアルバム(LP /CD)が日本・アメリカ・カナダ・スイス・フランス・香港などでリリースされている。演奏活動の他、各地で即興・ヴォイスや彫塑、空間ダイナミックスなどのワークショップを数多く行っている。

◆天鼓 ライブ情報

⚫︎2023年12月22日(金)@千駄木Bar Isshee
出演 天鼓/田畑満  
open19:30/ start 20:00 
投げ銭制(別途チャージ500円+ドリンクオーダー)
・予約受付メールアドレス
:barisshee@keh.biglobe.ne.jp 
タイトルを「12/22予約」とし、氏名(フルネーム)と人数(最大2名)と電話番号を明記。

 
⚫︎2023年12月24日(日)@POLARIS
「ブラッククリスマス2023」 
出演 天鼓/灰野敬二/ドラびでお/山川冬樹
open 17:30/start18:00
ADV:4,500円/DOOR:5,000円(+1ドリンクオーダー withミニギフト)
・前売りは下のお店のサイトで発売中



⚫︎2024年1月9日(火)@神保町《試聴室》
出演 天鼓(Voice)/ レオナ(Tap Dance,全身打楽器)/ 
MIYA(Flute,能管,Modular)/  一噌幸弘(能管,能楽,田楽笛,篠笛,リコーダー,つの笛)
open 19:00/start19:30
予約:3500円/当日:3800円/under22: 2000円 (1ドリンク, スナック込)
東京都千代田区西神田3-8-5 ビル西神田1階


 
●カムラアツコ 80年代、日本初の女性パンクバンド「水玉消防団」で、ボーカリスト、ベーシストとして音楽活動開始。日本パンクシーンの一翼を担う。同時に天鼓との即興ボーカル・デュオ「ハネムーンズ」にて、ニューヨーク、モントリオール、ヨーロッパで公演、ジョン・ゾーンはじめニューヨーク・インプロバイザー等と共演。その後、英国に渡りポップグループ「フランクチキンズ」でホーキ・カズコとペアを組む。オーストラリアを始め、ニュージーランド、アメリカ、カナダ、ヨーロッパ、ソビエトなどツアー。90年代は、ロンドンで始まったレイブシーンでダンスミュージックの洗礼を受ける。2000年以降、「I am a Kamura」、「Setsubun bean unit」でフォーク、エスニック、ジャズ音楽の領域に挑戦。現在の自身のプロジェクト「Kamura Obscura」では、Melt, Socrates' Garden、Speleologyのアルバムをリリース。エレクトロニクス、サウンドスケープ、即興の渾然一体となったさらに実験的な新作「4AM Diary」を2021年末にリリース。同年秋、イギリスのポストパンクバンドNightingalesの満席完売全国ツアーをサポートする。2019年にはバーミンガムの映画祭Flat Pack Film Festival、2022年10月にはポルトガル・セトバルの映画祭Cinema Charlot, in Setubal, Portugal にて、日本の前衛映画の名作「狂った一頁」の弁士を務めた。
 
 
●水玉消防団 70年代末結成された女性5人によるロックバンド。1981年にクラウド・ファンディングでリリースした自主制作盤『乙女の祈りはダッダッダ!』は、発売数ヶ月で2千枚を売り上げ、東京ロッカーズをはじめとするDIYパンクシーンの一翼となリ、都内のライブハウスを中心に反原発や女の祭りなどの各地のフェスティバル、大学祭、九州から北海道までのツアー、京大西部講堂や内田裕也年末オールナイトなど多数ライブ出演する。80年代には、リザード、じゃがたら、スターリンなどや、女性バンドのゼルダ、ノンバンドなどとの共演も多く、85年にはセカンドアルバム『満天に赤い花びら』をフレッド・フリスとの共同プロデュースで制作。両アルバムは共に自身のレーベル筋肉美女より発売され、91年に2枚組のCDに。天鼓はNYの即興シーンに触発され、カムラとヴォイスデュオ「ハネムーンズ」結成。水玉の活動と並行して、主に即興が中心のライブ活動を展開。82年には竹田賢一と共同プロデュースによるアルバム『笑う神話』を発表。NYインプロバイザーとの共演も多く、ヨーロッパツアーなども行う。水玉消防団は89年までオリジナルメンバーで活動を続け、その後、カムラはロンドンで、天鼓はヨーロッパのフェスやNY、東京でバンドやユニット、ソロ活動などを続ける。


◆天鼓 Official Site

天鼓の公式サイト。ヴォイスパフォーマーとしての活動記録、水玉消防団を含むディスコグラフィーなど。

Kamura Obscura

カムラの現プロジェクト「Kamura Obscura」の公式サイト。現在の活動情報、水玉消防団を含むディスコグラフィー、動画など。

◆水玉消防団ヒストリー バックナンバー



 


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