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北村早樹子のたのしい喫茶店 第23回「紅茶専門店 原宿クリスティー」

文◎北村早樹子

 誰しも、幼少期のトラウマのようなものはあると思うが、わたしにも明確にある。
 わたしは小学校1年生からピアノを習っていたのだけど、その先生がもう本当にトラウマ級に怖かった。
 確か、母親の同僚の知人だったか、そんなポジションの先生だった。わたしは家から車で20分くらいの隣町にある先生の家に、毎週金曜日に通っていた。先生の家にはチャチャという耳にリボンをつけたシーズー犬が走り回っていて、実はわたしはこの犬も苦手だった。しかし、先生の手前、犬好きを演じなければならず、いつもこわごわ撫でていた。
 先生の家は大阪のベッドタウンにあるそこそこ良い一軒家で、一階と二階にグランドピアノが一台ずつあった。先生の娘さんはふたりとも東京藝大を卒業した後、ピアニストとフルート奏者になっておられて優秀で、恐らく先生もちゃんと一流の先生だったのだろうとは思う。そら、それなりに厳しくて当然ちゃうん、と思われるかもしれない。だが、わたしのトラウマになっているのはそういう、練習に厳しくて怖いとか、怒鳴られて怖いとか、そういうわかりやすい恐怖ではなかった。
 未だに母親コンプレックスをこじらせている恥ずかしい身の上であるわたしだが、遡ると、どうしてもピアノの先生に行き当たる。もしかしたら、この先生の洗脳がなければ、わたしはこんな風になっていなかったのではないだろうかと思ったりもする。
 小学生の頃から、わたしは母親のことが大好きなのだが、それは悲しい片想いであり、母親はわたしにはあまり関心がないということに気づいていた。わたしには天才バレリーナの妹がいて、小さい頃から妹は家でお姫さまだったので、何の才能もないわたしは当然関心を持たれない。それは仕方がない。無芸なわたしが悪い。しかしそれだけならず、母親は恋多き女でもあり、愛人を切らしたことがなく、また高校教師という仕事もしていたので、毎日多忙であった。それでも母親の気を引きたくて話しかけるのだが、「お母さん疲れてるから話しかけんといて」と言われてしまい、もごもごと口ごもる、そんな毎日を送っていた。
 そんな毎日を送っている、ということを、わたしが直接ピアノの先生に打ち明けたことはない。なのに、先生はやはり芸術家だから感受性が並外れて豊かなのだろうか、週に一回一時間、ピアノのレッスンをしているだけで、わたしのそういう、母親への屈折した想いみたいなものに感づいていたらしい。
「ピアノの音には心の汚さが出るんやで」
 先生はよくそう言っていた。ああ、わたしは心が汚いんだ。小学生は純粋なので何でも真に受ける。
 それに加えて、こんなことまで言い出した。
「さきちゃんは、お母さんへの感謝の気持ちが足りへんね。一生懸命働いて育ててくれてるのに、全然感謝してへん。せやからお母さんに愛されへんねんよ」
 そんなことを、ピアノ椅子の隣に座って、バイエルの練習曲に合わせて、わたしの耳元へ囁くのである。
 ああ、やっぱりわたしはお母さんに愛されてないんや。
 自分の心は汚れていて、お母さんに愛されていないということを突きつけられる、週に一度のこの一時間が本当に恐怖だった。それはいちばん言われたくないことだった。この体験がなければ、わたしはここまで母親への愛をこじらせることはなかっただろう。
 しかし、先生は何もわたしを潰したくてあんなことを言っていたのではないような気がしている。別に、わたしを潰したって先生に何のメリットもない。きっと、先生は真っすぐな善意で、わたしがお母さんから愛してもらえるようになるために、良かれと思って耳元であんな念仏を唱えていたのだろう。
 これは、大人の善意の押し売りが、子どもの心理的虐待になる、という一例でしかないのだ。
 そんな、ある種の心理的虐待を受けながらわたしはピアノを続けていたのだが、神様はちゃんといたようで、小学校6年生のときに先生が東京へ引っ越しすることになって、辞めることが出来た。やっと解放される。わたしは手放しでよろこんだのだが、母親はこの先生のことをとても慕っていて、辞めてからもずっと連絡はとっていたのらしかった。そして母親は、わたしもまた先生を慕っていると思っているのらしかった。
 中学校2年生の夏休み、母親が怖ろしい提案をしてきた。
「先生が東京遊びにおいでって言うてるから、妹とふたりで先生の家泊まりに行っといで」
 嘘やろ。せっかく離れられたのに、なんで今更あの先生に会わなあかんねん。しかも泊まるって、逃げ場ないやんけ。でも妹も一緒か。妹がいれば、先生もわたしにだけあんな念仏を唱えたりはせえへんやろう。妹はピアノを習っていなくて、たまに母親と一緒に迎えに来て先生に会ったことがあるくらいだった。妹はわたしと違って社交的で誰にでも愛想がいい子だったので、先生に気に入られること間違いなしだった。よし、妹をオトリになんとか逃げ切ろう。わたしはそう決意して新幹線で東京へ向かった。
 先生は当時、三軒茶屋に住んでいた。もうピアノの先生はやめていて、東京で優雅に世田谷婦人を満喫していらっしゃった気がする。妹とふたりで東京へやってきて、先生の家にお世話になった二泊三日の出来事を、しかしわたしの脳みそはもう何も覚えていない。東京ではあんな念仏は唱えられなかった気がするけれど、わたしはずっとびくびくしていた気がする。
 二泊三日、先生に連れられて、色々なところに行った気がする。しかし具体的にどこへ行ったのだったか、不思議なぐらい思い出せない。唯一思い出せるのは、原宿の竹下通りに行って、妹とふたり、クレープを買ってもらって食べたことだ。何故原宿に行ったのか、わたしか妹がリクエストしたのか、若い子は原宿行くもんやろという先生の好意だったのかは覚えていない。
 もう、20年以上前の話なのに、原宿に来ると未だに思い出してしまう。
 太陽のような笑顔で、金歯を光らせながらわたしの耳元で囁く、悪魔の呪文。
「ダカラアナタハ、オカアサンニアイサレナイ」
 先生はその後、伊豆あたりに引っ込んでのんびりご隠居の身になったような話を風の噂で聞いていた。だからもう、東京にも、この原宿にもいるはずがない。わたしも大人になった。わたしにピアノを教えていた頃の先生の年齢に近くなっている。しょうもないトラウマのせいで原宿が嫌いなままでは勿体ない。
 トラウマを克服するためには、やっぱり喫茶店だ(無理矢理ですね)。原宿には、本当にここがあの騒がしい竹下通りにあるのかと疑いたくなるくらい、落ち着いていて上品な喫茶店、クリスティーがある。

 原宿駅から竹下通りの入口を入って、女子高生たちをかき分けて進み、一つ目の角を右に曲がると、「自家製ケーキとおいしい紅茶の店、クリスティー」という木製の看板が目に入る。通りにはギャルたちが犇めいているのに、不思議とこのお店には若者はあまりいない。
 ショーケースの中の自家製ケーキもおいしそうだけど、わたしが何より伝えたいのは、ここのきゅうりのサンドイッチ。都内のあらゆる喫茶店のあらゆるサンドイッチを食べてきたわたしだが、大袈裟ではなく、ここクリスティーのきゅうりのサンドイッチは、日本でいちばん美しいサンドイッチだと思う。
 サンドイッチに挟まっているきゅうりって、だいたいいつも脇役である。ハムやツナや卵の引き立て役として、所在なさそうに1、2枚挟まっている、というのがよくあるきゅうりの立ち位置である。しかし、クリスティーのサンドイッチでは、きゅうりはまごうことなき主役になる。

 黒パンの間に、繊細に極薄にスライスされたきゅうりたちが、ぎっしり、何枚も何枚もミルフィーユになって挟まっている。味付けはつなぎに塗られたささやかなマヨネーズのみ。黒パン、きゅうり、マヨネーズ、以上。え、味気ないんじゃないの? 疑問に思った方はぜひ一度、クリスティーに赴いて食べて欲しい。きゅうりのミルフィーユが挟まったサンドイッチは、見た目に美しいだけじゃなく、とっても爽やかで、上品で、極上のおいしさなのだ。
 お紅茶はニルギリの葉っぱが入ったものをポットで出してくださるので、たっぷり2、3杯は飲めてしまう。美しいきゅうりのサンドイッチをいただきながら、お紅茶で口を潤すとあら不思議、英国のカフェーで寛ぐ貴婦人になったような気分が味わえてしまうではないか。
 優雅な午後を過ごしていると、あっさりトラウマのことは忘れていた。けれどお会計を済ませて、竹下通りに戻り、クレープ屋の前を通ると、また思い出してしまった。トラウマというのはなかなか消え去らないものだなあ。

今回のお店「紅茶専門店 原宿クリスティー」

■住所:東京都渋谷区神宮前1―16―1 
■電話:03―3478―6075
■営業時間:10時半〜20時 
■定休日:なし

撮影◎じゅんじゅん

北村早樹子

1985年大阪府生まれ。
高校生の頃より歌をつくって歌いはじめ、2006年にファーストアルバム『聴心器』をリリース。
以降、『おもかげ』『明るみ』『ガール・ウォーズ』『わたしのライオン』の5枚のオリジナルアルバムと、2015年にはヒット曲なんて一曲もないくせに『グレイテスト・ヒッツ』なるベストアルバムを堂々とリリース。
白石晃士監督『殺人ワークショップ』や木村文洋監督『へばの』『息衝く』など映画の主題歌を作ったり、杉作J太郎監督の10年がかりの映画『チョコレートデリンジャー』の劇伴音楽をつとめたりもする。
また課外活動として、雑誌にエッセイや小説などを寄稿する執筆活動をしたり、劇団SWANNYや劇団サンプルのお芝居に役者として参加したりもする。
うっかり何かの間違いでフジテレビ系『アウト×デラックス』に出演したり、現在はキンチョー社のトイレの消臭剤クリーンフローのテレビCMにちょこっと出演したりしている。
2017年3月、超特殊装丁の小説『裸の村』(円盤/リクロ舎)を飯田華子さんと共著で刊行。
2019年11月公開の平山秀幸監督の映画『閉鎖病棟―それぞれの朝―』(笑福亭鶴瓶主演)に出演。
2019年より、女優・タレントとしてはレトル http://letre.co.jp/ に所属。


■北村早樹子日記

北村さんのストレンジな日常を知ることができるブログ日記。当然、北村さんが訪れた喫茶店の事も書いてありますよ。

■北村早樹子最新情報

11月14日(火)北村早樹子ワンマン開催!

11月14日(月)
北村早樹子ワンマン第8回
場所:阿佐ヶ谷よるのひるね
時間:19時半開場19時45分開演
チャージ2000円+1D
ご予約の方はkatumelon@yahoo.co.jpまで、お名前、枚数、連絡先を明記の上、送信してください。
(完全予約制)


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