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ヒトリボシ (9)

カルガモの母鳥はヒナを大急ぎで巣立たせ、次のヒナを身籠るらしい。
切り替えが早い。ここ数年、「寒い」も「暑い」も言っておられず、健一の看病、介護に明け暮れてきた。

「すっかり疲弊し、今尚、ホッと出来ずにいる私にやり直しができる?」
「明るい未来はある?」
「過去は幻?」 
「いつもあるのは今だけ?」
「過去と現実は繋がっていない?」
未来に希望が持てず、現実と過去が混沌とする。

小学生の頃、祖母と母と私が一つ部屋に居て、曇り空から雨が降り出した。窓から外の様子を見ると、辺り一面の景色が緑色に見えた。その時のことは一枚の写真のように今も記憶に残っている。外が緑色に染まり、部屋の中まで緑色に包まれ、そんな中に三人が居た。

その記憶が次第に幻か本当かわからなくなってきていたが、「緑雨」と言う言葉があることを知り、単純に字面だけ見、
「あれは幻ではなかった」
と確信した。

また、小学校の授業中、窓の外に大海原が広がっている景色が浮かんで見えた。小学校は海からかけ離れた場所にある。空に浮かび上がった海にはいくつか船も見え、生徒達は席から離れ、窓に駆け寄り、その景色を眺めた。

蜃気楼だ。

「この記憶は幻か?」
後に小学校からの友達に聞いてみたが、その時はクラスが違ったのか、覚えてないらしく、確認は取れなかったが、これも、
「絶対見た。蜃気楼を」
と確信している。

「過去があるから現実の今が存在する。過去は幻ではない。」
いくら年を重ねても、未だこの世に馴染めず、何を信じれば良いのかわからない。ただ今まで自分が感じたことを信じるしかない。

白い部屋の中で幾日もあれこれと一人思いを巡らす私。そんな私を癒してくれるのは手に持つ飴の袋に一つひとつ書かれているメッセージ。
「ゆっくりしてね」
「気をつけてね」
「あったかくしてね」
「ほっとひとやすみ」
「無理しないでね」
家族の誰からも聞けない、そして、家族に私が一番欲している言葉。私は
「アーーーーン」
と口を大きく開け、飴を口に入れる。

施設に入っている健一にはヘルパーさんや看護師さんとのやりとりがある。そして、訪問診療や昼夜問わずの見守りがある。
私にはやりとりも見守りもない。
後ろ盾がない。

ふと、宮尾登美子の「一弦の琴」の蘭子の晩年の姿が頭をよぎる。二十年程前に読んだ時には、
「へぇー 何をやらせても優等生でプライドの高い人だった蘭子がこんなふうに朽ちていくのか」
と意外に感じながらも、他人事だった。それが、今では他人事には思えない。蘭子は一弦琴で人間国宝となったが子どもがおらず、一人布団で苦しみ、もがき、糞尿垂れ流し、布団も畳みも腐り、異臭漂う中、かすかに息をしているところを弟子の一人に発見される。枕元には蘭子が何日前に食べたのやら、米粒が干からびた茶碗と箸が散らかっている。
弟子によって発見された蘭子は病院へ運ばれ、最期は国宝らしい死を迎えるが、国宝でさえ、見守る人がいなければ、一人断末魔の苦しみを味わうことになる。

私はいつの間にか、韓流ドラマにはまり最近は本を読むことも少なくなったが、仕事を辞めてから活字中毒になり、活字を読むことなしでは一日を終えることができなくなった。そして、たまたま本屋で手にした一冊の本をきっかけに宮尾登美子の本を読み漁るようになった。

永らく本棚に眠っていた「一弦の琴」を久しぶりに取り出してきて、ページをめくってみる。すると、女性が書いたものとは思えない凄みと迫力ある筆運びに圧倒され、
「あぁ、この感じ」
と懐かしさが蘇り、分厚い本でありながらも、何冊も読破できたリズム良く流れる文章に吸い込まれ、また読み耽ってしまう。

愛読書、宮尾登美子の本にはどの作品にも芯のある女性が描かれている。
「この芯のある女性に私は憧れ、ここ二十年近く生きてきたのではなかったか?」

サイン会が高島屋で開かれると聞けば、朝早くからいそいそと出掛け、整理券を手にした。そこまでファンだった作家の作品、本来なら血となり、肉となり、骨となってるはずが、今の私はすっかり弱気になっている。
七十歳ぐらいまで、まだ十年は娘達が結婚し、孫の顔も見、夫婦で海外旅行を等と考えていただけに年を取ること、一人で暮らすことが想像以上に重く私に圧し掛かってくる。

「今は蘭子の時代とは違う」
とは言え、自分の行く末を考えなければならない。

健一のお陰で「有料老人ホーム」「サービス付き高齢者住宅」「特別養護老人ホーム」等々、一通りの施設を見学してきた。
最初は「老人」や「高齢者」と言う言葉が付いているのに抵抗を感じた。けれど、もう
「引っ越し先をワンルームマンションへ」
等と悠長なことを言っている場合ではない。
「最後は施設でお世話になるか。そのためにはお金が…… お金がなくては話にならない」
「施設に入ったら、今の生活を贅沢だったと思い、毎日食べているあんころ餅を懐かしく感じるのだろうか……」
と思い通りになるか、ならないか分からないエンディングをああやこうやと考える。


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