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公園/壁の思い込み/暴力の記憶

はーい🙋‍♀️もこもこで〜す😃
昨日は天気が良かったので久しぶりに公園に行って来ました🚶‍♀️
公園で遊ぶ子どもたちや、ベンチに腰掛けてコーヒー☕️を飲んだり、おしゃべりを楽しむ大人たちや散歩をしている人々などさまざまな人々が楽しく過ごしている光景を見て、平和っていいなぁ〜🍀としばらくぼんやりしてしまいました☺️
ここ2年は、流行り病の影響で人気がなく閑散としていました。久しぶりの光景に、涙ぐみそうになりました🥹

最近、壁だと思い込んでいたところから、突然、何かがスルッと引き出される感覚を感じることが多いです🌲

今日も公園に行って、何かが自然に引き出される感覚🍃がありました。

またまた、ひじょ〜に暗いエントリー💀になってしまいますが、もしよろしければお付き合い下さいませ🌳

壁だと思い込んでいたのに、なにかが引き出される感覚をイメージして書きました⛲️

また、どうせ誰も読まないだろうなあ〜と思っているので、結構言いたいこと書いちゃったかな⁉️
悲惨な内容の割に、私は結構スッキリ💩しています😉✨🍀

⏱【暴力の記憶】⏱

凶暴なただの野獣に対して、闘いを挑む者はこの世に誰もいない。

軽蔑の感情しか持てない相手に対して暴力を振うことは無いし、裁く気にもなれない。

相手を尊敬する気持ちがあり、どこかで理解してくれるだろうとの期待があるからこそ、相手は暴力をふるい、虐待し裁きたがるものである。

誰かを虐待している人で、自分が誰かを虐待していた時の光景を思いだせる者はほとんどいない。

自分には価値がないと自分で自分を虐待すればするほど、記憶は欠損し、虐待の泥沼にはまり込んでゆく。

今、ここに立っている地面の感触すら感じられないほど、記憶の欠損は現在を奪い、引き換えに底なし沼の恐怖に引きずり込まれる

目にみえる言葉と理解が蒸発してしまった実体のない恐怖ほど恐ろしいものは無い

自分に本当はやましいところがあるのに思い出せない恐怖から逃れようとして、今日もますます声高に自分はだれも虐待していないし、暴力を振るったことは無いと主張し続けている。

思い出せない恐怖が導く根拠のない主張に、昔よく聴いていたなじみの音楽のように吸い寄せられ、慰めてくれるけど長くは続かない。

自らの残虐性を自覚し、加害の記憶を保持できる人間とは、暴力の記憶はかならず誰かを死や悲しみから救うのに役に立つという信念と勇気を持ち続け、自分の狂気に日頃から親しもうとする崇高な犠牲者だけである。


中世のフランス🇫🇷裁判官のモンテーニュは、歳を取ることは便秘になるようなものである、と著書のエセー📖に書いています。歳を取るとやりたいことが増えても、押し出し排出する力が減少しているので、どんどん溜まっていって外に出せなくなってしまうんですよね😅

ではでは、今日も便秘解消💩しちゃいました😆

お読みいただきありがとうございます😊💞
またね〜😃🙋‍♀️🥬🥬⛲️⛲️


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