[理系による「文学」考察] シェイクスピア"リア王"(1605) ➡誰も幸せにならない物語...。なぜなら、皆に共通する目的・方向性がないから(経営学的考察+α)。

上記のように、シェイクスピアの作品は色々な観点から考察でき、故にシェイクスピアは天才と言われる所以だと思いますが、今回は"リア王"における経営学的考察+αになります。

"リア王"自体の簡単なあらすじと解説はWikiを見ていただければよいですが、結論、誰も幸せにならない物語です…。

もう少し具体的に言うと、すべての行動が裏目裏目にでて、あ~あ、なんでこうなっちゃうんだろう…、なストーリーが終始展開します。

今回の考察のトリガーとして自身が気になったのは、物語として、利己的な長女と次女が幸せにならないのはよいとして、主人公のリア王の幸せを真に願い献身する三女のコーディリアでさえ幸せにならない点です。寓話として、献身が幸福につながる物語にしてもよかったと思うのですが、コーディリアでさえ幸せにならなかったのはなぜか?、に対する自身の回答を会社経営に置き換えて、シェイクスピアの意図を考察します。

まずは、"リア王"自身は零細会社の傲慢なワンマン社長と捉えられます。次に、傲慢なワンマン、の要素はとりあえず無視し、社長、であることに注目します。

会社における社長の責務は色々ありますが、1つあるのは、会社(組織)の目標と方向性を示し、社員に共有・納得してもらい、その方向に進めることで利益を得る、ことです。

ここで、社長である"リア王"に意識を戻します。当然のことながら、上記の社長の責務はこなしておらず、社員(リア王以外の登場人物)は個別の利己(エゴ)に沿う行動を行い、その方向はバラバラです。よって、会社自体もバラバラで倒産・皆不幸、を示唆した作品として、経営学的には、やっぱ社長は会社(組織)の目標と方向性を示さないとね~、の"あるある"考察は容易ですが、それだけでは物足りないので、もう少し深堀します。

で、再度三女コーディリアに注目します。

コーディリアは社長に忠実ですが、会社に忠実ではありません。社長を真に大切だと思うのであれば、会社を良くする行動に出るべきであり(例えば会社の方向性を社長に代わってまとめるとか)、コーディリアの献身も、実は個別の利己に沿う行動、に結果的になっています。

つまり、"リア王"は、献身でさえエゴである、を描いた作品であるとも言え、そんな風に人間社会を深く深くえぐってくるところがシェイクスピアに皆が魅了されるところかな、と思った次第です。

と、なんだか硬い文面になってしまい、シェイクスピア作品の敷居を高くしてしまったかもしれませんが、実際そんなことはなく、小説として読みやすく、かつ、とても面白いので、お勧めですよ~。


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