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[理系による「アート」考察] シェイクスピアにおける道化の存在意義

考察は色々なされており、論文もネットで見出すことができるが、ちょっと別の視点で。

"劇中におけるスパイス"の意図は当然あるであろう。観客にちょうど良いあんばいの違和感を劇に与える必要があり、高度な演技技術が必要であり、自身が俳優であればこの役をぜひやってみたい。

ここで、違う観点を持つために、自身が演出家になったつもりで考えてみる。演出家にも色々なタイプの方がおられると思うが、自身が演出家であった場合、演出家であっても劇には出たい。舞台に立ち自身が演出した劇に対する観客のリアクションを生で感じたい、と強く思うのである。

ここで道化に関して再度考えてみるのだが、道化役に一番適するのは演出家自身なのではないであろうか?劇における道化の役割は、進むストーリーを客観的・俯瞰的に少し引いた目線を観客に気付かせる、があると思われる。これはまさに演出家の視点であり、道化の適役は、役に入り込んでいる役者ではなく、劇全体を俯瞰的に演出した演出家自身ではないかと思われる。

つまり、道化は演出家自身が舞台に立つための余地として準備された役、ではないであろうか。

ちなみに、フェイクスピアの道化役は演出した野田さん自身がされておられ、どの役者さんよりも楽しんでおられそうに見えたな…


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