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読書感想文の感想文の感想文はどんな感想文なのか?

言語ゲーム

私の言語の限界は、私の世界の限界である

L・ウィトゲンシュタイン

タイトルを見てご存知の方もおられるかもしれないが、これは大人気YouTuber東海オンエアの動画のタイトルである。
まず、2人ずつに2チームに分かれ、司会である虫眼鏡が遠藤周作の「海と毒薬」を読み、感想文を書く。
そして、チームの一人ずつがその司会の読書感想文の感想文を書く。
そしてその感想文の感想文だけを見てまた次の人が感想文の感想文の感想文を書く。

〜流れ〜
海と毒薬→虫眼鏡(司会)→ゆめまる→りょう
海と毒薬→虫眼鏡(司会)→しばゆー→てつや

いわば読書感想文の伝言ゲームだ。
これが非常に面白い。
まさにコミュニケーションの本質が分かりやすく詰まっている。
この記事は、東海オンエアのこの動画を通じて、言語を用いたコミュニケーションの難しさと面白さを伝えることを目標としている。
また、言語で思考し、認識する私たちは、原理的に人を完璧に理解することは不可能であるという事実もここでお伝えしておく。
これはネガティブな意味ではない。
コミュニケーションがうまくいかない時、この事実は孤独感や無力感に対する鎮魂歌に、あるいは落語のような役割を果たせるのではないか、という私の個人的な想いもある。
まずは見てほしい。
とても面白いし、大変勉強になるいい動画だ。

どうだろう。
一つの文章からここまで、結果が分かれるのは非常に面白いし、興味深い。
もちろんこれは、おもしろ動画であるから、ここまで極端なことは生じにくい。
だが、仕事でもこの動画に負けず劣らず信じられないぐらい自分の意図していることが伝わっていないことも多いだろう。
全く面白くないということ点が異なるだけで。
報連相が大事だ。なんていうのはそれだ。
コミュニケーションはそもそもうまくいかないことの方が多いから、報連相なんて言葉が生まれたのだろう。
このようにコミュニケーションは複雑で、コメディであり、トラジディなのだ。
まず、この不思議なコミュニケーションを、5つの項目に分けて考察し、東海オンエアの動画のような創造的なコミュニケーションの実現にはどうすればいいのか、考えてみる。

コミュニケーション

他者とコミュニケーションを取るときにまず意識しておきたいのは、「人は簡単にはわかり合えない」ということ

出口汪

Wikipediaでは人間の間で行われる知覚・感情・思考の伝達。とかいてある。
要は情報の伝達である。
今回は読書感想文の伝言ゲームなので、言語による情報の伝達に限定して話を進めていく。
他にも、音楽や絵やボディランゲージなど様々な情報伝達方法があると思う。
言語伝達とは、ある個人が世界から感覚を通じて入力された情報を、脳の中で処理し運動系を通じて言語として出力し他者へ伝える過程である。
私:感覚→脳→言語→
他者:感覚→脳→言語→
このループで成り立っている。
感覚を通じて情報伝達が行われるということは、そこには必ず、個性、違いを仲介している。
身体はもちろん、生まれも育ちも全員違うのだから、誤差があるのは当たり前ではある。
違った情報入力を、違った脳が処理・出力するのだから。

言語の要素

言葉はハンマーのようなものだ。組立にも使えるし、壊すのにも使える。

N・チョムスキー

言語は大きく分けて、意味、統辞、文脈の3つの要素が存在する。
これらの要素が複雑に絡み合いながら、コミュニケーション、つまり伝達として機能していく。
まずはこの三つに要素について、簡単に説明する。

意味
ある言葉はある対象に対して、何かしらの概念を持つということ。
例えば、リンゴという言葉は、あの赤くて丸い果実を指している。
記号と対称を同じにすることで意味が生じる。

統辞
単語など意味をもつ単位を組み合わせて文を作る文法的規則の総体
簡単に言えば、主語、述語などの文法のようなものだ。

文脈
会話や文章の流れの中にある意味内容のつながりのこと。
これはつまり、足りない情報や文章のつながりを脳が補足するということである。

利便性

汚れてもいい古い靴がひとつあると、何かのときにけっこう便利なものですよ。

村上春樹

お分かりかもしれないが、人間の使う自然言語は、意味も統辞も人間が使いやすいように、結構緩いところがある。
例えば、犬という単語だけでは柴犬なのかチワワなのかまではわからない。
同じく、主語のない文章は、その文章だけでは誰が主語か明確にはわからない。
これらの不確実性を全て明確にしながら、コミュニケーションすることがベストだが、それは不可能だ。
それはつまり、現実にある全てのありとあらゆるものに別の単語を与えるということだから。
全てのアリ1匹ずつに別の名前をつけることを考えると、頭が痛くなるだろう。
だから私たちは、意味も統辞も世界とのゆらぎを残した自然言語を用いることになる。
そしてゆらぎを埋めるのが文脈である。
全ての事物、現象、概念に単語を与えなくても、話の流れ、文の流れでこの言葉が何を意味し、単語同士がどのようにつながっているかある程度わかる。
つまり、言語を用いたコミュニケーションは、意味も統辞も使いやすくするために、文脈に依存した形をとっている。
ただし、文脈自体が、発信者、受信者の人生の文脈によって制約がある。

コンピュータ言語

「もちろん機械は人間と同じようには考えない。人ではないからね。機械は人間とは異なるように考える。これはおもしろい疑問だ。みんなと違う考えは、考えていないということなのか?人間は互いの相違点を認めている。君はイチゴが好きで、僕はアイススケートが嫌い。君は悲しい映画で泣き、僕は花粉症。脳はそれぞれ違い、違うように考えるんだ。ならば、同じことが言えるのではないだろうか?ワイヤーや鉄でできた脳にもね」

A・チューリング

コンピュータ言語は非常に厳格である。
コードを一つ一つ定義して、プログラムを組み、少しでも異常があると正常に動かない。
つまり、文脈に依存しない、非常に論理的な言語形式である。
これは情報伝達という点で言えば、理想的なコミュニケーションの形の一つとも言えるかもしれない。
といっても、人間が使う以上、コードは人間が定義するから、他人が書いたコードは何を書いているかわからないということがよく起こる。
人間が介在する以上完璧な言語はない。
実はこの厳格さは、裏を返せば文脈を、ゆらぎを排除しているということであり、全てを定義できないという事実と、私たちの生きる世界は常に変化する複雑系であるという事実から、人間が使うには汎用性に欠けるということでもある。

自然言語

ある言葉が意味するのは、世界にある実物ではなく、その言葉が世界から切り取ったものである。

F・ソシュール

先ほども言ったが私たちが日常使う自然言語は、コンピュータ言語ほど厳格でない。
全ての言葉に定義などしないし、文法的に誤りがあっても伝わるし、そんなめんどくさいことを考えていたら、現実のコミュニケーションは不可能だ。
つまり、文脈依存であるが故に、常に伝達ミスの可能性を孕んでいるが、同時に柔軟性を保ち、使いやすい。
定義や文法的規則をある程度無視して、柔軟にコミュニケーションが可能である。
文脈の読み方は個人に依存するので、状況次第では、同じ文章でも全く違った伝達が行われる可能性がある。
同じ本でも読書感想文が一人一人全く違うものができることからも、わかるだろう。
そして、意味、統辞の制約から飛躍することで、詩や文学が生まれる。
詩や文学のような文脈の依存度が高いものは、複雑系である世界で、全てを定義しきれない言語の新たな可能性を生み出す。
つまり、自然言語は便利で、ミスと創造を持ち合わせている
コンピュータ言語を論理的とすると、自然言語は感覚的と捉えることができると思う。

ゆめりょう・しばてつ

イデアを集めると何が起こるんですか?

・論理型コミュニケーションのゆめまるりょう
ゆめまるはコンピュータ言語的に虫眼鏡の感想文を処理しようとし、ただ情報を歪め、欠損させてしまった。
しかし、りょうが極めて高度な文脈理解により、欠損した部分のリカバリーも含めて、素晴らしい感想文になっていた。
どこが問題なのか浮き彫りになったコミュニケーションなので
詩型コミュニケーションのしばてつ
しばゆー・てつやチームは、詩的な、つまり感覚的なコミュニケーションが行われる。
しばゆーが虫眼鏡を大きく飛び越え、てつやを火星へ運ぶ。
てつやは、しばゆー型の情報しか持っていないので、もちろん虫眼鏡の情報とは全く異なる情報として解釈するしかないが、彼のセンスと推理で、海と毒薬から、なんとテラフォーマーの話が出てきて、笑いが生まれる。
もちろん、元々の情報はほぼ失われているので、ゆめりょうのように明確に海と毒薬についての情報伝達が行われているとは言えないが、火星のゴキブリと笑いを作り出すことができた。
論理と詩のベクトル
論理は秩序をうみ、詩は秩序の破壊する。
この2チームの違いは、秩序の構築と秩序の破壊を両方達成した。
ゆめりょうチームは見事に虫眼鏡の情報を再構築した。
いうまでもなく、しばてつも秩序の破壊した。
つまり、論理の目指すゴールと詩が目指すゴールを一挙に達成した。
その結果、学びと笑いの両方を得ることができた。
YouTubeとしては、大成功である。

まとめ

人にはそれぞれの地獄がある

宇垣美里

言語によるコミュニケーションは、全く別の人間どうしが、ある文脈の中で、言語の正解を見つけていく。
しかも、この言語には普遍性がなく、文脈によって様々に変化する。
環境が変われば、ゲームのルールが変わる。
だから、うまくコミュニケーションが取れないことも普通なのだ。
逆に言えば、そのゲームのルールに慣れていくとそのゲームではうまくコミュニケーションが取れるようにもなる。
そして、しばてつの件でもわかるように、時にコミュニケーションがうまくいかないことが、新たな価値を生む場合もある。
そうやっていろんな可能性を認めるからこそ、言語によるコミュニケーションは、非常に人間的で難しくもあり、面白いのだ。
私も含むコミュニケーションが億劫な人たちは、どうせ完璧などない、ともっと気楽にコミュニケーションしてもいいかもしれない。
適当に話している方が、いい場面だってあるし。


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