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【2024 読了 No.9】上岡暘江+大嶋栄子著『その後の不自由-「嵐」のあとを生きる人たち-』(医学書院)読了。

國分功一郎著『暇と退屈の倫理学』(※【2024読了No.8】で紹介。以降、國分氏の『暇と…』と略称)を読んで、

「何故、ハイデッカーの第三形式ではいけないんだ?國分氏の提唱する暇とのつきあい方は私にはモノ足りなくて耐えられないな」

と思った。

読後、モンモンしたときに、國分氏の『暇と…』の注釈でこの本を知った。


著者の一人上岡陽江氏は「ダルク女性ハウス」という施設を運営している。ここでは、DV等の理不尽な体験を生き延びた後にトラウマから薬物やアルコールなどの依存症を発症した人達が共同生活を送っている。上岡氏本人も薬物依存の経験がある。


私も幼少のときは父の母に対するDVを見せられ、自分自身も深く傷ついたが、更に傷ついた母からはサンドバッグのように「怒りや疑念を向けられ続け」てきた。

そして、薬物とかはさすがにないが、アルコールと買い物については依存症に近いものに苦しむことがある。


だからなのだろう。「この書を読むべき」と天啓に近いものを感じた。


この書を取り、目次を見たとき、「遊ぶ」という題が目に飛び込んできた。直感的に「ここだ❗」と感じ、早速そこから読み始めた。

「みんな(※著者の一人大嶋栄子が関わる依存症に苦しむ女性達)は『遊ぶ』と『楽しい』とかが“わからない”と言います。(※行替え)小さいころ、家族でどこかに出かけた記憶があっても、それは怒鳴り声と言い争う声が伴うものだったり、酔った父親の機嫌に翻弄される緊張感におおわれたものだったりします。」


私の家もまさにそんな感じだった。


出掛ける度に父は必ず誰かを怒鳴った。その対象は出掛け先の係員が多かったが、母や私に向かうこともあった。家族で出掛けることは少なかったが、その数少ない記憶には常に父の怒鳴り声があった。


もしかして、私も「『楽しい』がわからない」人なのではないか?


この疑念が湧いて出てきたとき、私は雷⚡にも似た衝撃😱に襲われた。


私は読書も仕事も卓球🏓も勉強も犬とのフリスビーも犬とのカヤックも“楽しむ”、むしろ“楽しむことの天才”ぐらいに自分を考えていたからだ。


更に読み進めたとき、大嶋氏によれば、DVとその後の依存症で苦しんできた女性達は「家族で生き延びることだけで精一杯だった日々を過ごし」たため、「自分だけが楽しむのは罪だという感覚に苛まれる」とあった。

これも思い当たった。

私が家族に対して“罪悪感”を感じたのは、中学入試のために勉強することにだった。


中学入試に対し、父は何も言わないが「生意気だ不愉快だ」という空気を常に醸していた。五歳上の姉は公立中出身だったし、勉強はできなかった。彼女は嫉妬と憎悪を隠すことなく私にぶつけてきた。


そこで私は父説得のための“中学入試をする理由”というストーリーを創出した。

父は祖父が経営する三菱重工の下請け会社の跡継ぎで、当時は専務だった。


「○中学高校は女子校にも関わらず東大合格者も出している進学校だから、ここに受かったら次は横浜国立大学の工学部造船工学科(←今は無い)に入り、そこを出たら三菱重工に入って、ゆくゆくはこの会社を継ぐつもりだ。」

具体的なストーリーが創れたのは、姉の大学受験雑誌が家にあったからである。


頑張るためには、目的や目標や“ストーリーを”創出しなければならない…と、そんな“強迫観念”に縛られていた自分に気がついた💡。


語学の勉強も「英検準1級」、犬を飼うにしても、「フリスビー大会出場」等、本来持たなくてもいいハズの“目標”を創る。


その点、軍隊的な“頑張らざるを得ない”環境は助かるのである。

「罪悪感」を感じる“暇”もなく、次から次へと課題が追いかける環境はとても助かるのである。だから、毎週やるべき課題を明示し、毎日曜日にはテストが課してくる四谷大塚や、厳しい環境の部活🏓にのめり込んだのかも知れない。


國分氏の『暇と…』が引用したハイデッカーの言葉がとても印象に残っている。

「私たちはいま自分たちの役割を探している。…私たちは、自分たちで自分たちで役割を与えなければならない程軽い存在になってしまったのだろうか?もし私たち自身が自分たちにとって重要な存在であるのなら、わざわざ自分たちの役割を探し当てねばならないなどということにはならないだろうから。」


ハイデッカーや國分氏は役割探しに人を追い込む苦しみを霧のように覆ってくる「退屈」にあるとした。

確かに健全な家庭で育った人にとっては、やることがないときに人を覆ってくる不快なものは、「退屈」だけかも知れない。

だが、DV等の緊張感に満ちた「機能不全家族」で育った者を襲ってくるのは、罪悪感やフラッシュバック、恥辱感、孤独感等、単なる「退屈」より重苦しい耐え難いものである。

上岡氏によれば、「家族の問題とか、両親のDVの目撃とか、自分が暴力を受けてきたとか」の経験をしてきた「彼女たちは、自分の心のからっぽさとか、どんなに独りぼっちかというような痛みを感じないように問題に次ぐ問題(※問題=自殺未遂のような問題)を毎日のように起こしてきた」のだという。

だとすれば、熱中できる目標を探すことも、ハイデッカーが指摘する「自分たち」が「役割」を探すことも、依存症の人達が自殺未遂やオーバードーズを繰り返すことも、何かを忘れたいがために熱中しようとする点では同じなのではないか?

ハイデッカーはやがてナチスに荷担するのだが、ハイデッカーに限らず多くのドイツ人がナチスに荷担した。それは、ナチスが何かを忘れたいと思う人達に、「熱中できるストーリー」を提供したからではないか?と思えてきた。


過食とか薬物とかパニックとかを繰り返す状況を上岡氏は「グルグルする」と表現する。「グルグルすることで、心が空っぽになるのをうめてる。グルグルがなくなっちゃったら何もない。」と。

でも、本人たちはこのグルグルから逃れたいと思っている。

こんな「心が空っぽになる」ときに、ナチスが使ったようなユダヤ人陰謀論やアーリア人選民論に似たような言説に触れたらどうなるのだろうか❓️

彼らはその言説に飛び付くのではないか🤔


私は中学入試後も、相変わらず目指すものを設定してそれに向かいつっ走り続けた。大学院進学を目指して勉強したし、大手予備校講師を目指して仕事と採用試験向けの勉強を頑張ったし、大減量を目指して体を鍛えまくったし、サブフォー目指してランニングにのめり込んだし。


まっ要するに「目的依存症」なのだろう🤪。


その点では、アルコールや薬物の依存症と根は同じかも知れない。でも、決定的な違いがある。

上岡氏よれば、「みんな(※ダルクはメンバーもスタッフも『依存症当事者』で、この『みんな』はダルクのメンバーのみならずスタッフも含めていると思われる。)に『勉強はいつまでした?』って聞くと、口をそろえて『小学校の三年まで』って言う。…日本の歴史とか、世界の歴史とか、選挙とかのというのがすべて抜けて」いるそうである。

だから、「世の中の成り立ちもまったくわかっていない」。だから、ダルクの中で「九九とか漢字ドリルとかを教え合ってる。…そういうことをみんなでやっていくのは必要だなって思ってる。」

知識の無い同士で教え合っても、限界があるのではないか?と思う。

上岡氏の話をもっと読んでみよう。「私たちトラウマ持ちはね、テレパシーで…伝わると思ってる。…自分がこんなに困ってるってことが相手にテレパシーのように伝わってると思ってる。…仲間うちだけで話しているとね、なにかの一つの単語で…『そうだよね同じだよね』とか、まったく説明していないのにわかった気になっちゃう瞬間があ」るのだそうだ。

仲間うちだけで通じ合ってよしとする“馴れ合い”が生じている。

そして、当然のように、

「『仲間たちじゃない人と話してるときは相手に伝わってないよ、テレパシーでは相手に伝わらないんだよ』って教えないとだめだよね」となる。

そこにある最大の問題は、国語能力の欠如ではないだろうか?。漢字ドリルだけでは国語能力の発達は覚束ない。だから、外部の人間をボランティア講師として招き国語能力を鍛えて貰うべきなのだが、彼女たちは多くの人に傷つけられてきたから、人間不信が強い。恐らくそれも難しいのだろう。

一方で、私は30代半ばから(最近は使われなくなった)「アダルトチルドレン」やDVや依存症関係の本を継続的に読み、自分と家族の関係を客観視(=メタ認知)してきた。

「自分の痛みとか喪失みたいなものを整理しないと、後々まで心の中でいたずらをしちゃうんだよね。…しゃべれたらしゃべるってかたちで整理していくよりほかはないのかな。」

言葉には伝える力のみならず、考えを整理する力もある。人の言葉への理解が高まれば読書によって新たな知見を得られる。

この本を読んで改めて国語能力の重要性を認識した。

根は同じ依存症ではあるけれど、「目的依存症」は、アルコールや薬物の依存症とかとは違い、何らかの形で“自分を鍛える”。

鍛え上げた力は、当初の目的と違う所でも役に立つのである。

勉強はもちろん、スポーツも体を鍛えるのみならず、思考力も鍛えてくれる。

最後にこの本を読んで、とても不満に思えた部分を挙げよう。筆者は大嶋氏である。

「嗜好問題への治療や支援が盛んなアメリカでは、回復に関する多くの書物が著され、多くの回復モデルなどが整理されています。仕事柄読むこともあるのですが、一見合理的で洗練されているかに見えるそのモデルを眺めても、わたしはそこに“希望”をあまり見出せないでいます。」という部分。

日本の介護や支援関係者や教育者に至るまで、女性の多くは“知識”や洗練されたモデルの導入を軽視する傾向があると思う。

「むしろばたばたと慌ただしい日常の支援のなかで、本人たちがやらかす『まったくもう!』と思うようなトラブル---そのトラブルの質がふっと変わっていることに気づく瞬間に、希望を見出すのです。」

なんて、美しい心の持ち主だろう❗

…と思うだろうか❓️。
いや、ここに罠がある😑。

実は大嶋さん、ご自分の主宰する「それいゆ」の被支援者に自立して欲しくないんじゃないかな?と思えてしまう。一種の共依存を感じてしまう。

頑張って中学に入試をする娘は可愛くないと思うが、進学校で落ちこぼれてダメダメデブになると、「俺がいないとコイツは生きていけない」と可愛がってくれる父を持った身には、そう思えてならない🤪。


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