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小説『THE ANGEL FLEW OVER DOWN TOWN』


交わしたはずのない約束に縛られ

破り捨てようとすれば後ろめたくなるのはなぜだ?


芯から冷える12月の末の夜。東京は爆弾低気圧の襲来によって記録的な積雪を観測し、その混乱は夜になっても続いていた。自分ひとりしかいない1DKのアパートの部屋の中で、俺は愛用の白い携帯ラジオを付けた。周波数のダイヤルはTBSラジオにずっと合わせっぱなしにしている。薄いノイズが混ざりながら誰かがリクエストした「drifter」が流れている。でもそれは、キリンジが歌った原曲の方じゃなくてBank Bandがカヴァーした方のやつだった。桜井和寿の透き通るような綺麗な歌声が、かえってなんとなく部屋の寒さを増長させているような気がする。

ちょっと南に足を延ばせば若者がバカ騒ぎしている渋谷。北に行けば恋人たちが結構無理した高級感溢れるデートをしている新宿。そのエアポケットの代々木八幡は静まり返っていた。それでいい。頭の足りない大学生が集まりハイネケンの瓶をぶん投げながら軽トラをひっくり返して大騒ぎするだけの町が東京じゃない。もっとマスコミも、こんなにひっそりしたクリスマスが東京にあることを全世界に教えてやればいいんだ。ぺとぺと、とフローリングの上を素足で歩く音が部屋に響く。俺は、100円ショップで買ってきた便箋の封を雑に開けて、手近なボールペンを手に取った。少し書き出しをどうするか考えて、ペンを走らせた。

「拝啓、小野塚あゆみ様…この手紙が届いているということは、あなたは、まだどこかで生きているということなのでしょう…」

真っ白な柄無しの便箋に、真剣な顔をして俺は言葉を連ねていく。本当なら無理して仕事を入れていたはずなのだが、えらいもんで上司は俺に変な気を遣って毎年クリスマスイブを休みにしてくれる。働きたいとこっちが言っているんだから働かせてくれればいいのに。と毎年文句を垂れると、毎年上司は「お前は働きすぎで稼ぎすぎなんだ。現場が好きなのはわかるが少しは休め」と返す。うちの職場の、伝統行事だ。

結果、クリスマスイブに俺は毎年ひとりぼっちになる。

「…どうか、来年こそは貴方に会えますように。久保清祥」

封筒の宛先には、「刑務所」の文字。彼女への手紙はわりとすぐに書けた。明日の朝に出しに行こうかとも考えたが、そんなことよりも早く酒を飲んで泥のように眠りたかったのでそのまま外に出た。黒いコートの腕の部分に重たくて水っぽい雪がしんしんと降ってくる。あゆみとの関係と、なぜ俺が今刑務所あての手紙を書いているのかの理由を話すと、とても長くなる。

ポコポコ、とスマートフォンから通知音がする。
「せいしょーかんとく♡何してる?」
送り主は、見慣れたというか見飽きた知り合いだ。

「代々木の家で寝てた」
「どうせ暇でしょ?付き合ってよ」
「今から?めんどくせ」
「まだ終電あるでしょ、赤坂まで来てよ」

俺は面倒くさくなって、クマが『しょーがねーなぁー』とぼやいているスタンプを送って適当に返した。ユニクロの黒のハイブリッドダウンを無造作に掴んて羽織り、適当なスニーカーをつっかけて外へ出た。畜生。またいつもの調子で押し切られてしまった。あのオンナの言いなりになるつもりはないのに、LINEが来れば都合よくホイホイと行ってしまう。いやなら最初から断わりゃいいのにと思いながら、俺の足はメトロの駅へ急ぐ。千代田線に乗ってしまえば赤坂には12分で着く。いつも大体仕事がない日はサカスや一ツ木通りの辺りでベロベロになるまで飲み歩いて、そのまま死んだような顔して家まで帰ってくる。

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