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操作された自由意思

私たちは、この世界で何もかも自分の意思で行動していると、そう思っている。でも、これは意外に間違いだったりする。

私たち人間は、自分の意思でなど行動していない。昨日も書いたけれど、私たち人間は皆、操作されている。

この世界には、たくさんの情報が溢れているけれど、その情報を私たちは自分たちの意思で選択し、そして見ているとそう思っているかも知れないけれど、これも意外に違ったりする。

私たちは、自分で~しているのではなくて、他者に~させられている存在にすぎない。自分で見ているその情報も、実は、自分で選択して見ているのではなくて、操作され、見せられているに過ぎなかったりする。

私たちは、自分の意思ではないものを、あたかも自分の意思であるかの様に思い込まされ、そして今日もこうして生かされている。

私たちは何も自分でなど決めてはいない。決めたと思い込まされているだけ。自分に自由意思を持っているとそう思い込まされているだけ。その夢の世界の中を生きているだけ。

私たちは今夢の世界の中にいる。でも、これを認識するのはとても難しい。皆、今この目の前にある世界こそが現実だとそう思っているから。

今自分の生きているこの瞬間を現実であるとそう思っている訳だから、それをいきなり、夢の中と言ってもそれをそう簡単に理解する事は難しいのかも知れない。でも、本当に私たちは夢の世界にいる。誰かの作った世界の中にいる。私たちは自分の作った世界の中になど生きてはいない。誰かの作った世界の中で私を生きているに過ぎない。つまり、誰かの作った世界の中にいる限り、その誰かの思う様に私たちは操作されているという事になる。

なにもかも、この世界にあるその全てが計算され尽くして、そして作られている。私たちはその事を何も知らない。だから、自分たちがありとあらゆるものに操作されているという事も知らずに、全てが自分の自由意思だとそう思っている。

自分の意思で決めた。自分の意思で選択した。そう言うけれど、その殆どが外部のものによって操作されている。外の世界に依存し、そして自分の力で動こうとしなければ、その全ては皆操作されるという事になる。

私たちは自分で選択しているんじゃない。ただ、そこにいくつか提示されたものの中から、自分に最適なものを選んでいるだけ。

いくつか選べるものを用意され、その中から、自分の自由意思ってもので自分に適したと思われるものを掴んでいるだけ。でも、よく考えてみて欲しい。これが本当に自分の自由意思であるのか?と。

私たちは、決められた枠の中で生きているだけで、その枠の中で自分は自由だと言っているに過ぎない。用意された枠の中で自分の人生を謳歌していると言っているに過ぎない。そのあらかじめ用意された枠の中で生きる事が本当の自由と言えるのだろうか?

私たちは、自分の意思で~しているのではない。自分の自由意思で~している訳ではない。いつも、何かに~させられている。だから、自分で選択した事も、決定した事も揺らいでくる。結局は外部にあるものの影響を受けて、私たちは~させられているに過ぎない。だから、自分でこうと選択した事、決定した事も簡単に揺らぐ。結局、私たちは自分の意思でなど決めてはいないのだ。何かの力によって、~という選択を取らされ、~という決定を下しているだけ。何もかも結局は操作されているという事。

これが夢でなくて一体何なのか?私たちは未だ夢の中。何もその足は現実という大地を踏んではいない。私たちは今フワフワと宙に浮くクラゲの様な存在なのかも知れない。

何もわかっていない。だから、私たち人間は今この目の前にある世界を現実という名で呼ぶのかも知れない。今この目に映るこの一瞬一瞬を一体誰が現実だと呼んだのか?これを何故、誰も幻想であるとそう思わないのか?

作られた世界。幻想の世界。その中に私たちは確実にいる。そしてその世界の中でずっとフワフワと何処にも行きつく事無くクラゲの様に漂っている。それが、今の私たち。ただ流されるがままにフワフワと浮いている。

フワフワ浮くというもの、ただ浮いているのと、自分のしっかりとした意思を持って浮くのでは全くその意味は違ってくる。己を知り、そこに在る全てに身を委ねるのと、己を何も知らずに、何もわからない状態でそこにある全てに自分の身を委ねるという事の間には、雲泥の差がある。

私たちは、自分を知り、その上で、自分の生き方を定めなければいけない。


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