ディメンター

生きるとは (死という名のプレデター)

私たちはこの世界に完璧な状態でうまれてくる。そして、その生は不完全性に向かって進んでいく。

生まれたその瞬間から、私たちは死に向かって日々歩かされているという事になる。

この世界に生まれてこなければ、私たちが死というものを意識する事はなかった。でも、私たちはこの世界に生まれてきた。この世界に生まれ、私たちは日々この死というものと共に生きている。

死。それはいつも、私たちと隣合わせにある。死というものを意識しない日などない。いつでも、死は私たちと共にある。

死というものが常に私たちと共にある。だからこそ、私たちはこの日々を真摯に受け止めそして生きようとする。命が限られたものだと知っているから、この日々を充実させたものにしようとする。

私たち人間は何もしなければ、段々とその機能を落としていく。これは熱工学のエントロピーの法則に従っている。何もしなければ、そこにある一定の力をかけ続けなければ、秩序だったものも、無秩序な状態に変わっていく。

常に、自分に力をかけ続けなければ、私たちはいとも簡単にバラバラになってしまう。自分に意識を向け続ける。意識の光を当て続ける。そうしなければ、自分の中があっという間に真っ黒な闇に覆われて何も見えなくなってしまう。

闇が深くなったところにいくら意識の光を当てたとしても、その闇が明るく照らされるまでには本当に時間がかかる。毎日毎日自分の意識に光を当て続けていれば、自分の意識が深い闇で覆われる事はない。でも、この意識の光を当て続けなければ、私たちは一気に深い闇にその全てを捉えられてしまう。

意識を当て続けて、常に、そこに明るい光を当て続けるという事はとても難しい事だけれど、それをしなくては、人間的な成長は見込めない。

何もかも明るく照らしだす。目の前にさらす。よく見える様にしておくという事は時にとても都合の悪い事だったりする。でも、それをし続けていかなければ、深い闇が自分を覆い、その闇によって自分というものが何も見えなくなってしまう。

常に照らし続ける。常に自分の意識に光を当て、自分というものを明晰に見るという事が生きていく上ではとても大切な事だったりする。

何もかも自分の目の前に洗いざらい出す。そしてそれを自分のものとしてその目でしっかりと見て、そしてその心でしっかりと受け止める。そして、それらに何かおかしなことや、まちがっている事があるのなら、それを早い内に訂正する。間違えたものを間違えたまま自分の中に放置しない。

おかしなものがあるのなら、それについて検証を重ね、そして、それらを正しい形に戻しておかないといけない。自分の中に何かおかしい事があったり、間違った事があったりしたときには、必ずどこかの動きが鈍くなる。だからこそ、いつも自分自身に意識の光をあて続け、自分をくまなく点検するという事が必要になる。

自分に意識の光を当て続け、毎日自分の意識状態を確認する。そして点検。これは毎日欠かすべきではない。毎日毎日、自分というものを確認、そして点検。その中で何か、いつもと違う所があったり、不都合が生じた時には、その原因を何処までも追求する。そうなった原因をしっかりと検証する。そしてその原因が何であるのか?それを突き止める事が出来たのなら、今度は、その原因の解消。何をどうしたら、それらを解消する事が出来るのか?自分の中でマイナスになっているものをプラスに変換する事が出来るかを考える。自分の中にあるマイナスは絶対にマイナスのまま自分の中に放置してはいけない。自分の中にマイナスをマイナスなまま放置すれば、そのマイナス部分は、必ずその人の心の中で腐り、新たなマイナスを作り出すその手立てとなってしまう。

どんな些細な事でも、毎日の点検、確認で異常が見つかったら、その時にその異常を直していかなければいけない。私たちは毎日、自分の中にいつもとは違う異常事態が発生していたとしても、それに目を向けない。

自分自身に対する点検、確認作業を私たちは何故かしようとしない。そんな事はする必要がないとそう思っているのだろうか?毎日毎日、自分に異常がないか?昨日の自分と何か変わった事がないか?その心を、考えを、感情を、思考を点検し、そして確認するという事がない。

毎日毎日、しなければいけない事を怠っている。それで自分の事を認識しようとしても無理。自分を知るという事は、毎日毎日自分に向き合うという事。自分の感情に、自分の思考に意識を向け続けるという事。それが出来なければ、自分を知るなんて事は出来ない。こうした事は一日たりとも欠かすべきではない。点検、確認。これは毎日最低限しなければならない事だ。

昨日の自分と今日の自分に少しでもずれが生じたのなら、その原因を探り、その日の内に出来るなら、そのずれを元に戻す。そうした事が出来なければ、自分というものは、本当の自分というものから段々とずれていき、やがて、本当の自分というものを引き裂く大きな力になってしまう。

自分の中にずれが生じたのなら、とにかく早い内にそのずれを解消する事。それが出来なければ自分というものは大きく裂けていってしまう。その裂けの究極な状態が死という事になる。(ここでの死とは本来的自己が非本来的自己に変わるという事を意味する。)

死というのは、肉体的な死だけではない。私たちが生きている内に超えなければいけない死というものは、精神的な死だ!!これを乗り越えなければ、例え肉体が生きていたとしても、その魂は死んだに等しい。

死というものは、毎日私たちにこっちへ来いと言って手招きをする。こっちに来れば、全てが美しいとそう言い、私たちをタナトス(死)の世界に引きずり込もうとする。

死は私たちが徐々にその姿を失くしていく事を喜んでいる。私たちが徐々にその力を失い、生命を失っていけば、その失ったエネルギーを死は吸い、、それによって死は生きながらえようとする。

私たちが日々の生活でエネルギーを失えば、死がその私たちが失ったそのエネルギーを吸い取り、死が活性化する。

死、それはいつも生に対抗している。死は生の全てを飲み込もうとする。死は、この世界の全てをその腹の中に収めようとする。何もかも深い闇の中に飲み込んでしまおうとする。それでこの生の全てを自分のものにしようとする。

私たちは、この人生の中で、いかにこの死と向き合い戦うかを常に試されている。


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