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私が悪なのか?それとも私を悪としたものが悪なのだろうか?

世界にはいいも悪いもない。サイコパスという特殊な人間を除き、世界には、善も悪もない。

この善や悪というものを作り出しているのは、私たち。

私たちがいいとか、悪いとか言った概念を作り出して、それをもとに人を判断し始めた。

そのせいで、悪だと判断された者が、その理解力に乏しい人間たちによって悪にされた。彼らを悪にしたのは、想像力を持って相手を理解しようと努めない人間たちによってもたらされた悲しみだ。

私たちは自分達で悪を作っておいて、その悪を自分たちの力で罰しなければいけないとそう言う。

自分達が正しい人間だ!という事を示す為に故意的に私たちは悪という一部の存在を作り上げた。そうする事で、正義というものを強く私たちに意識させようとした。

悪なるものを作り、それを成敗する善。そう言った形を作り、悪は成敗されるべき悪いものだ!という教育を世界中に施した。

悪とは、滅ぼされるものであり、批判、非難の対象にされ、貶められるものであり、善とはその悪を支配し、コントロールする権限を持つ者だ!という事を私たちは教えられたというか、日々、色々なメディアからそう言ったメッセージを無意識的に受け取っている。

私たちは知らず知らずの内にこれと言った強い言葉を持たないメッセージを様々なものから受けている。

善と悪。そんなものはなかった。こんなものを作ったから、世界はおかしくなった。全も悪もない。元々はそう言う世界だった。

支配する人間、支配されるべき人間。そんなものはなかった。もっと言えば、人間はこの世界にある何ものも支配するべきではなかった。私たちは支配ではなく共存を生きるべきだった。

共に生きる。こうした生き方を捨て、私たちは支配権を手にした。何もかも自分たちで支配した。自然も動物も皆、人間が彼らの自由を奪い支配した。人間というのは、自然と動物を支配する事に飽きたらず、人間に階級を付け、分類した。支配するものと、支配される者。そうやって、人間とは何処までも、自分の優位性を見せつけようとした。その自分は特別であるという思いに耽ろうとした。そのせいで、今世界がおかしな事になっているというのに、多くの人間はそれにも気づかない。

私たちは未だにこの善悪二元論に基づいて生きている。悪なるものは何の理由もなく排除したり、身体的な苦痛を与えてもいいと思っている。正しいものは、正しくないものの自由を奪ってもいいとそう思ている。こんな理不尽な事を平気であっていい事だと思っている。こうした在り方に何の疑問も持っていない。

私たちは理解するべきだ。もっと人の事を。何事もこうだと決めつけず、もっと想像力を持って人に寄り添うべきだ。これが出来なければ、この世界から悲惨な出来事が減る事はない。

理解のない人間によって、心を傷付けられた人間が、その悲しみ、苦しみゆえに悪となる。その事を私たちはもっと真摯に受け取り、考えるべきだ。

悪だ!悪だ!と彼らを非難する前に、彼らを悪だとした私たちは、その自分自身の行為を見直すべきなのではないのだろうか?彼らが本当に悪だったのだろうか?それとも、彼らを悪にした私たちが悪なのだろうか?



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