社会的タブー
いい大学に入って、いい会社に入って、良いパートナーと出会って、結婚して、子供を産んで、子育てをして、我が子を立派に育て上げて、その我が子が、孫を生んで自分は年寄りになって、皆に見守られながら最後を遂げる。
こうした形というかスタイルは一体誰が作ったんだろう?こうした生き方こそが、人間として最良の在り方だとそう提唱した人は誰なんだろう?もっといえば、こうした日本人共通というか、世界共通の意識を作ったのは誰なんだろう?
良きパートナーに出会って、そのパートナーとの間に子供をもうけて、その子供と共に、生きる。これが、人間として最良の生き方だとそう決めた人は一体誰なんだろう?
何故、人間というのは、幸せの形を1つに決めたがるんだろう?特に日本人は、良い大学に行って、早い内に結婚して、親にかわいい孫の顔を見せるっていうのが、なんか一般的な幸せの形の様な気がする。
私たちはこうした誰かの作った神話みたいなものを無意識的に信じている。だから、何とかして、いい大学に入って、いい会社に入って、いいパートナーに出会って、かわいい子供を作ろうとしている。そして、早くに親後行をしなくてはいけないという呪縛に捉われている気がする。
社会に惹かれた誰が作ったのかもわからないレールの上を私たちは毎日知らず知らずの内に歩かされている。この線路の上を忠実に歩いて行かないといけないといったそう言った思いを無意識的に私たちは自分の中に形成してしまっている。そんな気がする。
よく考えてみて欲しい。私たちがこうと信じているその大半が、いったい誰が決めた事なのか?
いい大学に入って、いい会社に入って、良いパートナーに出会って、素晴らしい結婚をして、かわいい子供を残す。そして自分の親にそのかわいい孫の顔を見せてやる。こうした事がいけないとは言っていない。でも、幸せの形はこれだけに限定される事では無い。
私たち人間というのは、こういう在り方だけが正しい在り方だと何においても言いたがる。自分たちの生き方を一つに限定したがる。幸せの形も1つに限定したがる。そして、そこからあぶれたものを蔑んだ目で見つめる。
何でもかんでも人間というのは、枠を作りたがる。その枠を作って、内と外を作る。そして、その内に在るものは、優遇され、そして、その外にいいる者は排除する。
こうと言われるその形にそぐわないものは、社会逸脱者だ!といい、私たちはそうした人たちを排除する。蔑む対象にする。こういった事を見ていると、人間というのは、何か蔑む対象を作らないと生きていけないものなのかと思わされてしまう。
良いものと、悪いもの。そう言ったものを作って、いつも何かを傷付けたり、蔑んだり、排除したりせずにはいられない。何かを蔑み、排除したり、非難したりする事でしか、私たちは自分の事を肯定する事が出来ないのではないだろうか?もしそうだとしたら、私も含め、人間というものは、本当に愚かな生き物だ!とそう思う。
自分という存在を肯定する為に、社会的格差をつける。人間というのは、本当に恐ろしい。ただそれだけの為に、自分で自分を肯定し、自分に優越感を感じたいが為だけに、私たちは、社会的格差を作っているに過ぎない。
あの人よりも私の方が幸せだ!そう言いたいから、皆が信じて疑う事のない神話を私たちは今日も信じて必死にいい大学を探し、良い会社を探し、そして良いパートナー探しに明け暮れている。
私たちは、レールの上を毎日歩かされているに過ぎない。誰かの作ったレールの上で、そこに在る神話を無意識的に信じ込まされて生きているに過ぎない。
このレールから外れて、世界を見た時には、幸せの在り方はもっと他に在るのかも知れない。私たちは、あまりにも、色々な事に縛られすぎている。
皆、自分の信じているその神話によって動かされている。でも、この神話にかかった魔法がそろそろ消えようとしているよね。最近。皆、いい会社に入って、良いパートナーとの間にかわいい子供を持ちながら、自分の親にそのかわいい孫の顔を見せながら、一家団欒でその食卓を囲みながら、その心の深い部分では何かが、足りないとそう思ってる。皆で一緒になって、笑いながら、おいしい料理をつまみながら、でも、その心には、何かパッと晴れない何かを抱えている。でも、それを口にする事はタブー。皆、これを言ってはいけないという思いをその心に抱えている。だから、私たちは一生懸命自分に言い聞かせる。自分の人生は幸せなんだと。でも、そう自分に言い聞かせている時点で何かが違うんだよ。幸せってのは、それだけに限定されるものではないんだよ。
私たちは、いつもどこかですぐにでも、どこかに飛び出したいという思いを持っている。でも、それが出来ない状態を自分で作ってしまい、自分で自分をあきらめてしまっている。
大人になると、皆口を揃えてこういう。自分の若かりし頃の夢は、自分の子供に託したと。でも、そんな夢を子供に託されても、子供の望む夢は全く違うものかもしれない。自分が出来なかったから、子供にその夢を託すというのはどうなんだろう?子供が、その親の夢を託されて、喜んでその夢を自分の夢にしようと本気でそう思うだろうか?子供は、親に愛されたいから、親が託した夢を親から受け継ぐのだとそう考えた事はないだろうか?
私は大人になっても夢をあきらめるべきではないと思う。夢を持つ事が出来るのは、子供だけではないと思う。大人になると何もかもががんじがらめになって自由に動けなくなるとそう皆言うけれど、そんな事はないよ。子供がいても、仕事をしていても、自分の考え1つでどうにでも出来る。
私たちは自分たちが信じて疑う事のない神話、自分達で無意識的に作り出してしまっているその神話に縛られているに過ぎない。それに気づき、脱する事が出来れば、私たちはいつでも自由に生きられる。
私たちは、これまでタブーとされてきた事に今こそ目を向け、そしてそのタブーとされていたことをこの口で語らなくてはいけない所に来たのかも知れない。こんな事を思ってはいけない。言ってはいけないと自分を抑えるのではなく、そうした思いや考えが尊重されて行く世界にこれから私たちはシフトしていかなければいけないのも知れない。
私たちはこれまでずっと我慢する事が美徳であるとそう信じてきた。でも、これからはその我慢する事を美徳としていたその考えをあらためなければいけないのかもしれない。我慢を美徳とする考えをやめ、私たちは共に、理解し合う事を美徳としなければいけないのかもしれない。
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