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コロナだけが”特別”なんじゃない

どうにかなるんじゃね?どうにもならないのならそれはそれで別にいいし。

とりあえず、私たちは今を生きたいから、ほっといてくれる?

私たちはこの世界で何が起こっていたとしても、関係ない。この世界で今回の様にコロナが蔓延しなくても、私たちはいつだって、危機の中にいる。今だけが危機な訳じゃない。今だけが緊迫している訳じゃない。私たちの人生は今回に限らずいつだって緊迫して切羽詰まっってる。

だから、コロナだけが特別なんじゃない。もうすでに私たちは危機の中にいる。でも、これまで、そんな危機の中にいる私たちを一体誰が助けてくれようとした?コロナだからって騒いでいるけれど、コロナであろうが、コロナでなかろうが、これまでだって、誰も私たちを助けてはくれなかった。

何もしてはくれずに、ただこうしろ!ああしろ!と言われても、私たはどうしてもそれに従う事は出来ない。私たちはいつだって危機の中にいて、これ以上ないほどの不安の中に日々身を置いている。でも、大人はそんな事には何も気が付かない。私たちに対する保障などこれまで何もしてこなかった。

この世界で生きづらさを抱えてどうしようもない私たちに、この社会は何も見向きもしなかった。見向きもしなければ、手を指し伸ばそうとすることもなかった。

何もしなかったくせに、何も見向きもしなかったくせに、今になってコロナだからと、大人は又子供を抑え込む。私たちの在り方に文句をつける。本当に若者の考えが悪いのだろうか?

何がどうなったって別にいい。そう言った考えを若者が持つに至ったのには、それなりの理由がある。何かをどうにかして欲しいと心から望み、求めた時に、手を差し出さなかったのは大人だ。その大人が何を言おうが、こうした若者からすれば、一体何?といった感じになるのだろう。

今の若者からしたら、コロナであろうが、コロナでなかろうがそこには何の違いもないのかもしれない。コロナだからって自分たちの行動を変えようが、変えまいが、何も変わらない。これまでと同じように、自分の人生はつまらないものとして続いていく。

人の命がどうだとか、こうだとか、そんな事すら考える余裕もないくらいにこの国の若者の心は逼迫している。色々な意味での苦痛が自分のその身を蝕んでいる。だから、その苦痛に自身の身が蝕まれない様に、外に出る。外に出なければ、私たちにはもう何の救いもない。じっとしていたら、この身が蝕まれて行く。

何もかもが行き詰ってゆとりのない状態になっている。そんなのコロナでなくても、これまでがずっとそうだ。いつだって、私たちは危機の中にいる。毎日毎日一杯一杯で何のゆとりも持つ事など出来ない。どこにも余裕なんてない。だから、何もかももういいとそう思ってしまう。コロナであろうが、なかろうが、私たちの人生は変わらない。コロナで死のうが、この朽ち果てた都会の中で死のうが、私たちにとっては何も変わらない。

もっと人の事を考えろ!とそう言われるけれど、私たちには、その人の事を考えられるだけの精神的余裕もない。相手の事を思って行動しろ!とそういうけれど、そんな事をしていられないほどに、私たちの心は逼迫(ひっぱく)したものになっている。人の事を考えてなどいたら、自分が死んでしまう。私たちは、今自分のこの身を守るのに必死だ。

自分の身を守るために必死になり、それで死のうが、それはそれで別にいい。ただ私たちは今を生きなくてはいけない。だから、大人に何を言われようが行動する。私たちは自分をまずは助けないと、人の事を助けられる様なそんな人間にはなれない。他を助ける前に自分が死んでしまう。

他を助ける為に、私たちは今自分を生きなければいられない。他の命が日々危機にさらされている。もっとその事に問題意識を持つべきだ!とそう言われるけれど、私たちだって毎日、この自分の命が危機にさらされている。

毎日どうにもならない不安で逼迫した世界の中に身を置いているという意味ではコロナのの患者も、街をごろつき歩く私たちもそこに何の差もない。

大人は何もわかってない。今だけが特別なんじゃない。この世界はいつだって危機的状況にあった。毎日コロナで多くの人が死んでいる。私たちの心だって同じ。毎日コロナと同じようにものすごいスピードで死んでいる。




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