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大人と言われる人間たち 子供と言われる人間たち

だめ!と言われると、私たちはそのだめと言われる事を何だかむしょうにしたくなる。これはしてはいけません!と言われると、それを何だかむしょうにしたくなる。

だめ!と言われると、妙にその心が躍ってしまう。人間とはこう考えていくととても不思議なものだとつくづく思う。

私たちは自分の行動を日々制限されている。これは駄目、あれは駄目とそう言って毎日何かしら自分の行動や言動、その在り方全てに何らかの制限をかけられている。でも、その制限をかけられればかけられるほどに、私たちはそれを破りたくなる。

いけないとそう言われると、それをしたくなるし、それを言いたくなる。いけない、ダメ!とそう言われて制限されたその境界を私たちは危険を冒してまでも超えたくなる。いけないと言われたその向こう側の世界を見たくなる。

私たちはもっと向こうにある世界を見てみたい。でも、それを大人と言われる人間たちは駄目だ!と言って見せてくれない。大人だけじゃない。少なくとも私の周りにいる人間はその向こうに大きく広がっている世界を見せてくれようとはしない。

あれは駄目だとか、これはよくないだとかそう言って、私たちに何も触れさせようとしない。何かと制限を付けて禁止する。

大人と言われる人間は、何でもかんでも駄目だと言って物事を制限する。その先にあるものを見せてくれようとしない。私たちはその先にあるものを見たい。でも、それをいけないとそういう。あれも駄目、これも駄目、あれはいけない、これもいけない。じゃあ、一体何がいいんだ?って思ってしまう。

私たちはもっと未知なるものに触れたい。既存のものでは、この乾ききった心を満たせない。だからもっと広大な未踏の地に足を踏み入れたい。でも、大人と言われる人間は、それはあまりにも危険だ!!とそういう。そんな訳のわからない未踏の地にその足を踏み入れるくらいなら、今此処にあるすでに出来上がっているこの世界の中で生きているほうがよっぽどいいとそう言う。それが一番幸せな事なんだよとそう言って私たちに新しい世界を何も体験させてくれない。

大人と言われる人間たちが何故、子供と言われる私たちに新しい体験をさせてくれないのか?その理由は、ただ1つ。自分が虚しくなるからだ。私たちが未踏の地に足を踏み入れ、そこで何か新しい体験をしたら、大人と呼ばれる人間たちは、自分のこれまでの自分の人生を肯定する事が出来なくなる。

自分も、その未踏の地に足を踏み入れようとすれば踏み入れる事は出来た。でも、それが自分には勇気がなくて出来なかった。それが露わになるのが怖い。弱くて、冒険に出る事をためらったその心を大人という人間は凝視する事が出来ない。それに認める事も出来ない。そう言った自分の弱くて醜い心はずっと自分の心の奥底に押し込んで隠していたい。大人という人間は、自分のその醜さが露呈する事が嫌なのだ。

だから、子供と言われる私たち人間に冒険をさせない。何もかもだめだと言って制限を付ける。そうする事で大人と言われる人間たちは自分のその身を守ってる。

でも今,このずっとありとあらゆる事を大人と言われる人間の事情で抑え込まれてきた子供と言われる私たちはそれを超えようとしている。自分のその足で、いけないと言われて境界線を張られたその先に自らの足を踏み入れようとしている。

私たちはこれまで体験した事のない、触れた事もない未踏のその地に足を踏み入れようとしているというか、踏み入れ始めた。この未踏の地に足を踏み入れる子供と言われる人間たちは、自分の醜さが露わになるとそういい、私たちに真実を何ももたらそうとしなかった大人と言われる人間たちとは種が異なる。

この未踏の地にその足を踏み入れようとする子供と言われる私たち人間は、自分の責任において、その大人と言われる人間が張った境界線を今超えようとしている。次の世代に生まれてくれる子供たちに真実をもたらす為に。

大人と言われる人間。それは自分の事しか考えていない。この世界でいかに自分の事だけを考えて生きるか。でも、子供と言われる人間はそうした人間とは違う。子供といわれる人間は自分を超え、その後に続く人間の事を思い、そして今を生きる。

だから、私たちは駄目と言われるその境界線を越えて、その先にある未踏の地にその足を踏み入れる。既存のものだけの中に留まる事無く、常に、新しい事を目指して、進化を求めて、私たちはその大人と言われる人間がひいたその境界線を越える。

私たち子供と言われる人間はまだ人間である事を求める事をやめない。



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