影

ぞうきんみたいにその身を固く絞った事があるか?

ぞうきんを絞る様に、自分のその身も絞る。そうすると、ぎゅうぎゅうに絞ったその自分の身から出た汚れで、バケツの中の水が真っ黒になる。

その真っ黒なものが自分のその心を形成してる。

バケツの中に出たその汚れは、バケツの中で1つの形成物になって、1つの人格を備えて私の前に立ち現れる。その姿は私がずっと否定してきた私の醜い姿。

その姿が自分の前に立ち現れて、この今ある私を殺そうとする。その汚れきった私に殺される事無く、自分を変えるなんて出来ない。彼らの苦しみをこの身に受けずに自分を変えるなんて事は出来ない。

自分と向き合うなら、その身をしっかりと濡らして、その自分をぞうきんの様にしっかっりと絞り上げる事だ。そして自分のその身の中にある汚れを全てバケツの中に絞りだす事だ。そしてその絞り上げて出てきたものによって形成され、自分の目の前に立ち現れてきたものと対峙する事。そしてそのものを自分のその目でしっかりと見る事。

腐ったような臭いのするその自分をしっかりと、その鼻でかぐこと。目を伏せたくなるような自分の醜さから目をそらさない事。もっと言えば、その醜い自分を自分の周りにいる者たちの中にさらけ出す事。

自分はこんなにも汚くて、汚れている。そう自分の周りにいる人に示す。それが本当の意味での自分と向き合うという事の意味なのだろうと思う。

自分のその身をぞうきんの様にかたくきつく絞り上げた事のないものに、何を言われても、私たちは何も理解など出来ない。

絞って絞って、もうこれ以上ないほどにこの身から、その汚れの全てを自分の眼前にさらけ出し、それを自分のその目で見た事のないものの言う事など、何もこの心には響かない。

自分と向き合う。そんな簡単な事じゃない。自分と向き合うという事は、血を吐くような苦しみの先にある行為だ。

自分の中にあるものを吐いて吐いて吐き続ける。そうやって、自分のその体を、心を毒したその全てを苦しみと一緒に吐き出さなければいけない。

自分のその命をすり減らして、もう崖っぷちのそのぎりぎりの所まで行って初めて私たちは本当の自分というものに出会える。

自分を究極の状態にまで削った事のない奴に一体何がわかる?苦しみの何がわかる?血を吐いて生きた事のないものに、苦しみの何がわかる?

本当に生きるってことはそんな簡単な事じゃない。毎日毎日、自分を告白していく事。それが本当に生きるという事なんだ。

隠していたいその自分を、毎日告白していく事。それが生きるという事。

自分を見せたくなくて、張りぼてみたいに自分をおおって、それでモンスター化している人間になど、何もわかりはしない。

吐いてみろよ。その醜い自分。吐いて、吐いて、その喉から血が出るまで自分の中にあるものを吐き出してみろよ。自分の中が傷付く位、その身を犠牲にしてみろよ。

自分が何も痛手を負わずに、人生の光を掴めると思ったら大間違いだ!!光を掴みたいなら、自分の中にある地獄の中に落ちていけ。

その地獄の先に光はある。その地獄の中で、今あるその自分の全てを溶かしてみろよ。

自分が愛おしくて、その自分を手放す事が出来ずに執着しているものに、自分を変える事なんて出来ない。新しく自分を創造したいというなら、自分の中にあるその地獄の中に落ちて行って、そこで、今あるその自分の全てを溶かしてしまえ。その覚悟がなくて再生なんてありえない。

甘い事なんてもう聞き飽きた。私たちは、本当の事を聞きたい。幻想の世界に生きるのはもう飽きた。私たちは本当のリアルさを求めて生きたいんだ。

生きるってことは、血を吐きながら、この日々を毎日告白していく事なんだ。

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