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何かを必要としている時点で私たちは、本来の自分から遠ざかっているのかも知れない。

物も、事も、人間も、自然も何でもそうだが、何もしなければ、そこに在るエントロピーは増大していく。何も手を付けなければ、そこに在るものごとは皆全て、乱雑な状態になっていく。

力をかけ続ける。常に意識をし続ける事でしか、このエントロピーの増大を防ぐことは出来ない。

何事にも、力をかけずに、意識をかけずにいれば、私たちは皆、どんどんと複雑化していき、その姿は乱雑なものになり、自分でも、その自分がわからなくなる。それほどに、私たちは複雑化する。

自分というものに、常に意識を向け続けるという事は、本当に難しい。でも、これをしないと、私たちは自分をこれから維持する事は難しくなる。

ものすごいスピードで複雑化し、そして、私たちはあっという間に自分を見失う。自分の事がわからなくなる。それほどに、この世界の動きは速いし、恐ろしいくらいの情報がこの世界には溢れている。

こうした世界の中で、私たちが自分を見失わずに生きられる訳がない。よっぽど自分を意識し続ける事が出来なければ、あっという間に、私たちはこの社会の中に取り込まれ、そしてこの私なんてバラバラに解体されてしまう。

私たちは、このものすごいスピードで進む社会の中でこの身も、そして心もバラバラに解体されてしまっている。でも、それに気づけない。

自分の身も、そして心もバラバラにはなっているが、私たちは、そのバラバラになった自分に、都合のいいものをくっつけて、それを自分としている。だから、自分がバラバラバラになったものだという認識も持てない。

私たちは、バラバラになった。より複雑化して訳の分からないものになった。でも、それを私たちは何も知らない。

複雑なものになってよくわからなくなった私たちは、そのよくわからなくなった自分に、色々な自分に都合のいいものをくっつけて、それで何とか自分を維持しているに過ぎない。

人間というのは、生きている限り、どんどんとその形態を複雑なものにしていく。だから、生きていく中でどんどんと自分の事がわからなくなる。でも、ここで自分の事が何もかもわからなくなってしまったら困る。で、私たちはどうするのか?と言えば、自分がわからなくならない様に、自分に都合のいいものを自身にくっつけて、それを自分であるとそう認識しようとする。

私たち人間というのは、自分の事がわからないからこそ、外の世界に依存する。外の世界に依存し、そこで自分に都合のいいものを見つけだし、それを自分にとりつける事で、自分を認識しようとしている。

人間というのは、自分の事がわかっていれば、今のこの世界の様に、過剰に物を産み出す必要などなかった。自分がわからないからこそ、そのわからない自分を補償する多くの物を、人間は作り出す必要があった。

何かを通して、私たちは自分を知る。何かを通さなければ、私たちは自分を認識する事が出来ない。何かがある事で私たちは、自分というものを何とか成立させる事が出来ている。もし、この何かが何もなければ、私たち人間は完全に自分を見失ってしまうのではないだろうか?

何かがある事で、私なるものは私として成立する。この何かがなければ、私たちは、私なるものを成立させる事など出来ない。何かがある事で、私たちは何とか偽りであったとしても、自分を何とか失くさずに維持する事が出来ているのではないだろうか?

エントロピーが増大すれば、私たちはより乱雑なものになり、より複雑なものになり、自分の事など何もわからなくなる。完全に自分など消えてしまう。これを補償する為に物は生まれた。

私たちは、外部に生みだしたありとあらゆるものに依存し、そしてかろうじて、今ある自分を維持しているに過ぎない。

毎日どんどんと、エントロピーは増大していき、私たちはよくわからない混迷の世界の中に落ちていく。そこで自分を見失わないために、私たちは、物や事、人に今日も依存する。

何かがなければ、私たちは自分を維持する事が出来ない。何かを通してしか私たちは自分を認識する事が出来ない。私たちは何も必要とすることなく、自分の力によって自分を維持するという事が出来る様にならなければいけないのかも知れない。

何かを外部に求めるのではなく、自分で自分を維持する力、それを持たないといけない。何かに頼ることではなく、自分の力で自分を維持する、これが出来る様になることが大切な事なのかも知れない。

究極、私たちは何も外部に求める必要はなく、この自分だけがあれば生きていける存在なのかも知れない。意識を常に自分に向け続ける。これさえできれば、私たちは自分を見失う事はなく、わからなくなった自分を自己都合で勝手に作り上げる事もなくなるのかも知れない。




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