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ナルシシズムによる自己確立

私たちは、今自分の目の前にある世界が全てだと思って生きているところがある。木を見て森を見ない生き方だ。もっと言えば、私たちは木すら見ていないのかもしれない。私たちが見ているのは、木に茂っている多くの葉っぱの一枚。その一枚しかもしかしたら見ていないのかもしれない。

私たちが全てだと思ってみている世界は、木に茂った葉の一枚。そんな小さな世界を私たちは意外に全てだと思って生きていたりする。だから、苦しくなって、辛くなって、何処にも人生の逃げ道がない気がして辛くなる。

人間というのは、こうして考えていくと、本当に小さな世界にとらわれているんだなとつくづく思う。これが全てだ!とそう思うから、私たちは苦しくなる。自分でも気づいていないかも知れないが、人間というのは、自分で自分をこういうものだ!と何故か制限したがる。

どんな自分であってもいいはずだけれど、自分が一枚の葉っぱだったとすると、自分はこの葉っぱであり、それ以上でも、それ以下でもないと人間は勝手に自分の形を決めつけてしまい、そこに面白い事に自らとらわれる。自分で自分を捕らえ、そして、そこから自由になれない様に私たちは、自分の事を縛っている。

私たちは自由になりたいとそう言いながら、心の何処かでその自由になることを拒んでいる気がする。もっと自分を自由に解放してあげればいいと思うけれど、私たちはそう簡単に自分を自由に解放はしない。ずっと、私という自分で決めた形の中に自分を閉じ込めて、勝手にもがいていたりする。

苦しいよ、辛いよとそう言いながら、よくよく考えてみると、意外にその苦しみを作っているのは、自分だったりする。これが、人間の面白い所。何もかも自分で演出して、そしてその中でもがき苦しんでいる。まるで自分は自分で作ったストーリーの中の役者の様に。

私たち人間というのは、常に、自分をこの人生という舞台の上で演じたい生き物なのかも知れない。思いっきり、苦しんで痛む自分、人生に苦悩する悲劇的な自分、そう言ったものを演じたいのかも知れない。そうする事で、自分の人生そのものを劇的に演出しようとしている。自分で自分の人生のストーリーを作って、そして、そのストーリーを情感たっぷりに演じてみせる。そして、そんな自分に陶酔していたりする。

私たちは、こう考えていくと、自分で自分に酔っている生き物なのかも知れない。自分の姿に惚れたあのナルキッソスの様に・・・。

自分で自分のストーリ―を作り、それを演じる。そしてそんな自分に酔いしれる。これは普通に考えたら、かなりやばい気がするけれど、人間というのは、誰しも皆少なからずこうした傾向を持っているのではないだろうか?

人間というのは、自分に興奮したい生き物なのかもしれない。だから、劇的なストーリーを作り、それを演じる事で、その自分に興奮している。この興奮こそが、意外に私たちを動かすエネルギー、日常生活を動かす動力みたいなものになっていると考えられない事もないのかも知れない。

それぞれの人間が皆自分なりのストーリーを作り、それを演じ、その自分に興奮する。そうする事でその個人から多量のエネルギーが発生し、そしてそのエネルギーにより、今日の私たちの生命活動がある。こう考えてみるのも、意外に面白かったりする。

人間というのは、面白いもので、いつも自分のストーリーを作りたがる。そして、そのストーリーの中で悲劇を演じたがる。その悲劇の主人公になることで、私たちはその自分に強いシンパシーを感じる。この共鳴こそが、自分に対するこの強烈な共感、共鳴こそが、私という曖昧な存在をはっきりとした存在として認識させてくれるのかもしれない。

こう考えていくと、私たちはとにかく、自分というものをこの日々の中で強烈に感じたいという欲求を持っているという事になる気がする。私というものをどんな形でもいいから、もっと強烈に感じたい。私をもっと強く強烈に感じる事で、私という確かなものをこの世界に確立させたいといった思いが、私たち人間の心の中にはあるのではないだろうか?

私をより強烈に感じたい。これを手っ取り早く実現するには、自分のストーリーを作り、自分の悲劇を創作するという事になるのではないだろうか?そしてその悲劇を自ら演じる事で、その主人公である自分に私たちは強い共振、シンパシーを感じ、そこに明確な自分というものを、これが自分だというものを確立するのではないだろうか?

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