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西洋かぶれの似非(エセ)日本人

日本人は真面目で素直。だから、国の言う事をよく聞く。何かがあれば、日日本人は、我を先行させずに、その要請に従う。これは日本人の持つとても素晴らしい特性だ!なんていわれているけれど、そういったこれまで固定化されてきた日本人のイメージも、このコロナの発生によって崩れようとしている。

上品で慎み深い。これが海外の人たちが日本人に対して持っているイメージ。でも、このイメージも今崩壊しつつある。

私たち日本人は、自国のものを大切に守る事よりも、西洋から入ってきたものを大切にした。日本人であるという事よりも、外から入ってきた文化にその身をすっかり染められた。

私たちは日本人であるという事に強い劣等感を心の何処かに持っているのかもしれない。だから、日本人であるという誇りを捨て、西洋にかぶれる。西洋に憧れ、その西洋から入ってきたものに何でもかんでもかぶれる。

私たちは何でもかんでも外から入ってきたものに憧れた。自分たちの足元にあるものを大切にしないで、自分たちの遥か先にあるものに価値を置き、そのものを手にする事に躍起になった。

日本人であるのなら、その日本人であるという事を私たちはもっと大切にするべきなのだが、今現代に生きる私たちは、自分たちが日本人であるというそのアイデンティティーを自ら放棄しようとしている。

日本人であるという事から、私たちは今逃げようとしている。なんでもかんでも西洋にかぶれて、今その西洋かぶれが、物だけにとどまらず、その考え方や物の捉え方にまで影響を及ぼす様になってきた。

日本人というのは、海外の人たちの様に強いエゴを持たない。だから、何をするにも、自分を強く主張する事が出来ない。それが日本人の良くない所だ。自分のはっきりとした意見を持たない。考えを示さない。それが良くない。そう私たちは言われ、西洋的な精神の在り方を身につけさせられてきた。

厳かで、物静か。我を持たずに、全体の一部として生きよとするそうした崇高な日本人としての気高い生き方を私たちはいとも簡単に捨ててしまった。

我を強固なものとして固めていく生き方。これは日本人本来の在り方ではない。日本人はもっと繊細であり、我を持たずに、そこにある全体と共に生きる。つまり、自然と共に生きるというスタイル、自然の一部として生きるスタイル、それこそが日本人の素晴らしい所だった。

個体的ではなく、共同体的な考えを昔の日本人は大切にしていた。でも、そこに西洋的なものがどんどんと入ってきて、日本人の在り方を崩してしまった。

何もかも西洋から入ってきたものを良いものとして日本にとり入れる事で、日本的なものが段々とその居場所を失っていった。

外から入ってくるものは、何もかもが新しくて、斬新。その為に日本人は、その外から入ってくるものばかりに注目し、価値あるものは皆、外の世界から入ってくるものだという認識を持つ様になった。私たちは自国を省みなくなった。自国の素晴らしさに目を向ける事がなくなった。

自分たちにも素晴らしい所はたくさんある。日本にも素晴らしい考えや、文化がある。でも、それを素晴らしいものとする人が徐々に少なくなっていき、そういった伝統文化は時代遅れのものになりつつある。

今この時代に生きる若者というのは、その殆どが、西洋的なものに染まっている。お笑い芸人のタカ&トシのギャグに欧米か!というギャグがあるが、今の日本とはまさにこの欧米か!一色に染められている。

あっちを向いても、こっちを向いても、タカ&トシの欧米か!という言葉で染まり切っている。

何でもかんでも欧米化すればいいと思っている。ここは日本なのに、その日本の何もかもその全てが今完全に欧米化してしまっている。

この欧米化は、私たちの精神活動にまで深い影響を及ぼしている。今現代に生きる私たちからは、もうかつて日本人が持っていたとされる心の繊細さや奥ゆかしさなど何もない。何もかも欧米化してしまい、その精神もすっかりと図太いものになってしまった。

色々なものに対して、繊細な感覚を持っていたはずの日本人の私たちの感覚は今や、この国難のさなかにありながらもその危機を感じられないほどに鈍化してしまっている。

鈍化すれば、鈍化しただけ、人間というものはその我の力を強めていく。我が強くなるという事は、そのものが持つ感覚の鈍化を意味する。

感覚が極めて鈍化しているものというのは、そのが我が異常に強くなる。鈍化した自身のその感覚を補償し、そのバランスを維持する為には、我が強くならないとその精神の安定を保つ事が出来ないという事なのだろう。

自身の持つ感覚が、繊細なものであるならば、私たちの我というのは、ここまで大きく広がる事はなかった。感覚が細かく、そして繊細なものであれば、我をそこまで強める必要はないという事になる。

今の私たちはとにかく我を先行する。私、私、私で、私以外のものを尊重するという事がない。何をおいても真っ先に我を先行する。そしてその我が先行されなければ、私たちはその声を思いっきり張り上げて、自己主張を始める。これが、あの本当に繊細な心を持ち、自然と共に寄り添い生きた日本人なのだろうか?

何でもかんでも、自分の主張を通そうとする今の日本人の姿を見ていると、とてもじゃないが、そこには自然と共に生きた我欲の少ない日本人の姿は見えてこない。

日本人とはもっと奥ゆかしく、そして高い品性を持つ存在ではなかったのか?私たちは今一度、自分たちが誇り高き日本人であるという事を強く自覚するべきなのではないだろうか?

他国に染まるのではなく、今こそ、自国の素晴らしさを私たちは自覚すべきなのではないだろうか?欧米化に向かって歩いているその足先を今一度自国に向け直すべきなのではないだろうか?

日本人というアイデンティティーを今まさに私たちはしっかりと、この胸に取り戻さなければならないのではないだろうか?

一律になる事ではなく、日本人であるというその独自性を消してしまっては絶対にならない。私たちは日本人。ならば、その日本人であるその強みを今こそ世界に見せつける時なのではないだろうか?日本人としてのその価値を今こそ世界に見せつける時なのではないだろうか?

今世界が必要としているもの。それは、日本人が持っている繊細な感覚なのではないだろうか?私たち日本人の持つこの繊細さ、これが今世界には必要なのではないだろうか?繊細な感覚、そして、日本人の持つ最大の武器、実直さ。これがこの世界には必要なのではないのだろうか?

より大きなものというのは、いつも、とても小さなものから作られるのものだ。



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