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人間として生きるという最も純粋な行為とは、あらゆる拘束から解き放たれた先にあるもの。

この身をかみ砕くほどに強烈な体験。それを、私たちは求めているのかも知れない。そう言った強烈な体験がなければ、本当の意味での生など感じられない。

ぼんやりとしたこの世界では、私たちは何も捉えられない。可もなく不可もないこの世界で、いったいどうやって私たちは生きるという人間として最も激しい体験を得る事が出来るのだろうか?

人間である為には、もっともっと激しい体験が必要なのかもしれない。何もかもが緩くなり、平板化してしまったこの世界では、人間として生きるという醍醐味みたいなものを感じにくくなっている。

毎日毎日、今日も、人間として生きた!という強い実感が欲しい。でなければ一体どうやって、この毎日やってくるこの日々を肯定したらいいのだろうか?

私たちはただこの時間という空間の中で漂っているだけ。この時間を自分のこの手で支配している訳ではない。今この時代に生きる私たちは、この時間の従者。何でもかんでも時間に縛られている。私たちは時間の奴隷。時間というものから、もしかしたら私たちは一生自由にはなれないのかも知れない。

時間とは何であるのか?それを私たちがもっと意識的に考えなければ、時間との関係性をもっと冷静になってそれぞれが見つめ直す事が出来なければ、私たちは一生時間の奴隷。

生きるという行為。それをとことんまで考え尽くしていった時、その人間として最も純粋な生きるという行為は、私たちが毎日縛られているこの時間というものを超越したその先にあるのではないかと考えてみた。

私たちを縛り、そして拘束する時間。この時間から自由になった時、私たちは人間としての生をもしかしたら得る事が出来るのかも知れない。

時間とは一体何であるのか?その時間と人間の関係とはいったい何であるのか?これをもっと意識的に捉え、考えた時、今こうだと思っている価値観というものが一気に変わったりする。

これまで特に意識する事のなかったものに、意識を持ち始めると、この世界が全く違ったものとして見えてくる。

私が思うに、時間というものの中に捕らわれている私たちが自由、自由と呼んでいるその時は、意外に本当の自由ではなかったりする。

自由というのは、時間というものを超越したその先にしか見出す事の出来ないものだったりする。私たちは毎日、色々な意味で、色々な事をはき違えている気がする。特に深く色々な事を思案する事無く、全てを聞き流し、なんとなくの理解で生きている。

色々な事の意味を、1つ1つ丁寧にすくい上げて、それを深くまで思案すれば、私たちが毎日こうだ!と何疑う事無く信じている世界など簡単に崩れる。何もかも幻想であったという事がわかる。

私たちは、毎日自分の人生を生きているとそう思っている。でも、これも良く考えてみれば、もしかしたら、私たちは自分の人生など何も生きていないという事にもなるのかも知れない。

何が人生であるのか?どうする事が生きるという事なのか?それすら私たちは知らないのかも知れない。何もかもただ漠然とした意味づけによってただ何となく生きているという事にしているだけ。それが私たち人間だったりする。

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