足るを知らない肥大化した自我によって奪われる私たち人間の在り方
これから、私たち人間が得ようとしている永遠の命について考えてみた。
色々なテクノロジーが進化して、人間はこれからどうやら不老不死を手にしてホモデウス、つまり神の人になるらしい。
何でもかんでも全てを自分達で支配し、そしてコントロールする。何もかも自分達で作り出そうってことらしい。
人間というのは、本当に欲深くて、足るという事を知らない。次から次へと目的を変えて、それを達成させていこうとする。そうやって、人間というのは、自分たちがいかに素晴らしい存在であるのか?を見せつけたいのだろうか?一体何のために、私たちは神の領域にまで手を突っ込もうとしているのだろうか?
今でもそうだが、何もかもその全てが自分の好きな様に操作できる。これからはもっとそうした事が簡単に出来る様になる。今ある自分の形が気に入らなければ、その形を自分の思う様にいかようにも変えられる、そんな時代が来るというか、もう来ている。
整形の技術というのは、そもそも、けがをした人を助ける為に生まれたものらしいけど、それが今は、自分の顔が気に入らない人の為に使われる様になっている。
此処が気に入らないから直す。あそこが気に入らないから直すと言って、私たちは、自分というものをこれからますます操作する様になる。何でもかんでも操作する。自分たちの意のままにコントロールする。こうした生き方が本当に望まれるものであるのだろうか?と考えてしまう。
自分の子供であっても、今ではその髪の色、そして目の大きさ、口の形まで生まれてくるその前に設定できるらしい。
何もかも最初から、自分の気にいった形のものを持つ事が本当に人間にとっての幸せなのだろうか?最初から、全てが完成されたものを手にする事が本当に人間の為なのだろうか?何もかも計算されつくして出来上がったもの。それは確かに美しいかも知れない。でも、それを手にする事によって私たち人間がその代償として失うものは測り知れない。
私たちは未発達な状態で生まれてくる。それを長い人生をかけえて完全なものに仕上げていく。これが人間なのではないだろうか?未だ完成されていないものをこの人生に於いて、いかに完成に近づける事が出来るのか?それをいかにこの自分に与えられた時間の中で成す事が出来るのか?これを人間というのは、人生かけて追い求めるべきなのではないだろうか?
最初から形がきれいに整っていて、何もかもその全てが完璧な状態で生まれてくるものに、私たちは一体どうやって向かいあったらいいのだろうか?
何もかも操作され、完璧な状態であれば、私たち人間は何もしなくなる。私たち人間というのは、そこに不完全だと思えるものが在るから、それを完全なものにしようと、努力するのであって、何もかもが完璧であったとしたら、私たち人間の営みというものは、一体どうなってしまうのか?
完璧な世界というものは、聞こえはいいかも知れないが、よくよく考えてみればかなり恐ろしい。
私たち人間というのは、何もしなくなる。完璧なものが、自分の望むものが絶えず供給される事で、私たちは人間としての努力をこれから完全に怠る様になっていくのではないだろうか?
何もかも、自分の望む通りに操作する事が出来る。そんな世界がもし来たとしたらというか、もうすぐそこまで来ているのだが、そんな世界を目の当たりにしたとき、私たちは、本当にそうした世界に幸せというものを感じる事が出来るのだろうか?
何もかも自分の思い通り。今この世界に生きる私たちは、何もかも自分の目の前に在るその全て、自分を取り巻くその全てが自分の思うがままに操作出来たらいいという思いを持っているのかも知れない。何もかもが自分の意のままになる。そうした事に対して大きな期待を持っているのかも知れない。でも、本当にそうした時が来た時、私たちは本当にそうした世界の中で自分を心から満たして生きていく事が出来るのだろうか?
何もかも自分の思う様にいかない。上手くいかない。だから、色々な角度から考えてみたり、色々な方法を使ってトライしてみたりして、皆自分の望む形を手に入れる。人生で最も面白いと思えるのは、自分の思う様にいかない事を何とかして克服した時なのではないだろうか?
私たちは、上手くいかない事を、何とかして上手くいくように試行錯誤する。あーでもない、こうでもないと言って、数百、数千のパターンを組合せ、それを自分の人生に応用していく。これこそが、人間としての楽しみなのではないだろうか?いくつものパターンを試してみて、それが上手くはまった時の興奮を想像し、それを力に私たちは生きる。
私たち人間というのは、想像する事によって、未完成な自分をより完成体に近づけていくという事に激しい興奮を覚えるものなのではないだろうか?
未完成な状態で生まれ、どんどんどんどん完成された形に近づいていく。これが人間に与えられた喜びなのではないだろうか?
未完であるからこそ、人生というものは面白い。未完であるからこそ、人生には追求する意味がある。何もかもわからない、謎に包まれているから、私たちは、この人生に於いて、その謎を解こうと旅に出る。
未踏であるからこそ、その未踏であるその地を想像して、私たちは興奮するのだ。何もかもその全てが最初からわかっているものに、私たちは人間としての興奮や、快感を覚える事が果たして出来るのだろうか?
生きるという行為は、未完であるものを完成に近づけるための大切なプロセスであるのではないだろうか?
科学が進歩し、そしてテクノロジーが発達した今、私たちは一体何に、人間としての喜びや、興奮、そして快楽を覚えたらいいのだろうか?
何もかも人間によって操作され作られて行く。だとしたら、例え、その表面に肉をかぶっていたとしても、その内実はロボットと変わりない。
私たちは作られたロボットとしての快感、喜びを求めるべきなのか?それとも、人間としての快感、興奮、喜びを求めるべきなのか?こうした事は今一度考えなおされるべきテーマなのではないだろうか?
何もかも完璧に、そしてスマートに出来るそんな世界が来たら、私たちは一体何を目的に、何を人生の喜びにして生きて行ったらいいのだろう?
こうした世界が更に進めば、私たちはこの人間としての感情も、そして思考も、その全てをデータ化し、自分の喜び、興奮、快感、そう言ったものすらも自分で操作する、コントロールする様になるかも知れない。というか、そうなる。
そんな世界の何が面白いのだろうか?私たちは素晴らしい未来に向かって本当に歩いているのだろうか?皆、本当にこれから先、素晴らしい明るい未来が来ると本気でそう思っているのだろうか?
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