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鏡の中の美しい私

毎日毎日、私たちは鏡に映る自分の顔を見てうっとりする。そしてその鏡の中にいる自分を誰かに見せたくて見せたくて仕方がなくなる。

鏡の中に映る自分。それはとんでもなく美しい。だから、その自分を私たちは自分だけのものにしておいてはいけないという思いに駆られる。この鏡に映る美、それを自分だけのものにしておくのは罪。多くの人はそう思い、その鏡に映る美しい自分を他とシェアしようとする。

他に自分の美を共有してもらう事で、自分の美というものは確かなものだという確信を私たちは得たくなるのかも知れない。

鏡に映る美しい自分を他とシェアすると、その次にこの心に湧く欲求というのは、その美を更に向上させたいという思い。もっともっと美しくなりたいという思い。美を他と共有し合う事で、そこに私たちは競争心を持つ様になり、今自分が持っている美では満足する事が出来なくなる。他と比べるという事を通して、そこに優劣が生まれ、私たちは今ある形に満足する事が出来なくなる。

私たち人間の欲求というものは、何処までも果てしない。

鏡に映る自分に酔いしれ、その美しさを世間に知らせない事は罪であると、私たちはそう感じ、その美を世間に知らせる。しかし、世間には、もっと多くの美が沢山溢れている。自分だけがという思いが、此処で崩される。そしてここで私たちは劣等感を覚え、そして美を競い合う世界の中に身を投じていく。

美を競い合う競争世界の中に身を置き、そして私たちは、自分のその様態を少しずつ変化させていく。内面の美しさでは競い合えない事を知ると、私たち人間は外面に手を加え始める。そうする事で、はじめにあった美しさは徐々に消えていく。私たちから人間的な美しさは消え、どんどんとその様態は変化し、そして気づいた時には、もう過去の姿がわからないくらいに私たちはその姿を変える。そしてその姿を鏡に映し、その鏡に今日も聞く。

「今日の私は美しい?」と。

鏡は何も言わないし、自分もその鏡の中に映る自分の姿にうっとり出来ない。必死になって外面に手を加え、美しさを競い合っている時には、ゆっくりと鏡を眺め、その鏡に映る自分にうっとりする時間を持ってはいなかった。毎日毎日外部に手を加え、美しさに磨きがかかっているとそう信じていたが、いざ、じっくりと鏡をのぞきこんでみると、その姿にこれまで感じられていた美は感じない。あれほど美しいと感じていた自分に美を感じられない。この時、私たち人間の心、精神は崩壊する。

私たちは自分の美に自らを捧げ、そしてその美によって、最後は殺されるのだ。

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