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じいちゃんが私に教えてくれた事 #4

どんどんやってみて、つまらないならやめてしまえばいい。ただそれだけ。

大切なのは、嫌な事を続ける事では無くて、自分の好きな事をこの人生に於いて見つける事だ!とじいちゃんに教えてもらった。

これじゃない、あれでもないと言って、色々なものにチャレンジして、その中に自分を見つける。これが大切な事なんだと。

嫌な事をずっと耐えて続ける事が偉い事じゃない。

大切なのは、自分が何が嫌で、そしてその自分が何を好むか?を知っているという事。

あれをやって、これをやってと色々な事に興味が移っていく事は別に悪い事でも何でもない。今の今までこれ!と言っていたのに、もう次の瞬間には別のものを指している。それは悪い事では無い。色々なものに興味関心を示す事が出来る事は素晴らしい事。

どんどんと色々なものに興味を移していったらいい。他人に何を言われてもいい。興味の対象が定まらない、いつまでもふわふわしている。何を言われたっていい。

あれこれ、興味が移っていくという事は、その中で懸命に自分を探そうとしている証拠だ。

あれこれ手を付けては止める。こうした事はこの世界ではあまり歓迎されない。何もかも中途半端で何一つ自分のものに出来ていないとそう多くの人は批判するだろう。でも、そんな事をいちいち気にする必要はない。

あれもこれもやってみればいい。これだ!と思えるものが、自分にしっくりと来るものが見つかるまで、どんどんと、試してみたらいい。あれこれ試して、ダメならやめて又新しい事をしてみる。それでいい。どんどんチャレンジして、ダメならどんどんと次のものに乗り換える。それでいい。

中途半端という言葉は、私たちを完全に縛ってしまう魔法の様な言葉だ。

何もかも中途半端で長久にやれない。それの何がいけない?この言葉に反応してはいけない。この言葉に反応してしまえば、私たちは完全にこの言葉の呪縛に捉われる事になる。

何もかも中途半端。それがダメだ!と周りにいる人間はそういうかも知れない。でも、この言葉に踊らされるな。

何もかも中途半端でいいんだ。何もかも中途半端であるという事は、そのどれもが自分にとっては楽しくないという事を表しているという事にもなる。

途中で嫌になる、集中が切れるという事は、それだけの関心しか自分が寄せる事が出来ないものという事になる。そんなものに、いつまでも関心を寄せ続け、無駄な時間を注ぐくらいなら、その時間をもっと色々なものに向けるべきだ。

あれこれやっていいんだ。嫌ならやめればいいんだ。何かに収まろうとするな。あれこれやってみればいい。あれこれやって、嫌ならやめる。そうやって、自分の人生を見つけて行けばいいんだ。

あの人は何をやらしても中途半端。そういう人には付き合うな。彼らには、中途半端のポジティブな側面が何も見えていない。

中途半端で何が悪い。何も悪い事なんてない。何か一つに凝り固まってしまうより、柔軟でよっぽどいい。

とにかく色々やってみるんだよ、何か一つに凝り固まることではなく、何か一つに納得してしまう事では無く、安心してしまうことではなく、とにかくやってみる。柔軟に柔軟に、自分を広げて行く。

中途半端でいい。途中で嫌なら投げ出していい。ただ嫌だから投げ出すのではなく、その先を探しに行けば、それでいい。

人間だれしも、中途半端だ!と言われると、何もかも完璧にやってやろうという気になってしまう。相手の言葉に乗せられるな。何もかも完璧にやろうとすると、自分に一切柔軟性がなくなる。自分から、しなやかさというものが消えてしまう。

こうでなければいけない、ああでなければいけない。こんなくだらない思考に縛られるな。

どうだっていいんだ。何もかもその全てが自分の責任においてなされるのであれば、他にあれこれ言われる筋合いはない。

人の言葉に溺れるな。自分で自分の人生に責任を持って生きるなら、中途半端であるという事は決して悪い事じゃない。





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