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あまりあるを損して足らざるを補う。 自由主義がもたらした現代社会

神も仏もいなくなった今のこの世界を作っているのは、自由主義。

誰も、自分たちを統制する法はないし、これといった強制的な規則もあまりない。あるのは、人を殺してはいけないとか、隣の人のものを盗んではいけないとか、人を侵してはいけないとか、そう言った倫理的な事だけ。でも、その倫理的な事すら、今はしっかりと守られていない気がする。ここにも、自由主義というものが上手く入り込んできている。

自分が心地良ければ、それでいい。誰にも迷惑かけていないから、別に何を自分がしてもいいでしょ?誰も傷付けなければ、何をしたって別にそれを咎められる事はないというのが、今の私たち。

何だか色々な意味で、この世界というか、私たちの生きる社会は、寛大になったなあと思う。神という絶対的な存在を認めていた頃は、こんなにも人間は自由ではなかったはず。いつも何をするにも、そこに神の目があり、その神の目に見つめられている。そう思うから、人間は、悪い事など出来なかった。悪い事をしようとすれば、自分の良心というものが痛んだ。でも、今は違う。神が死んだこの世界では、もう良心というものすら痛まないらしい。

神が死んだ時点で、私たち人間の中にある良心というものも、同時にもしかしたら消えてなくなってしまったのかも知れない。

今この世界に生きる人間はあまりにも自由すぎる気がする。自分が心地良ければ、自分がそれでいいと思えば何でもいいみたいな自由主義。これって本当に素晴らしいものなのだろうか?

このまま何でもありの社会が続いていった時に、その先に見える未来とは一体どんなものなのだろうとたまに想像したりする。

いいも、悪いも、全部人間の主観的判断によってきめられる。どこにも、これが善で、これが悪だというような定義がない。このままいったら、この世界は、何もかもが何の区別もないめちゃくちゃな状態になっていく気がする。

何だっていいんだよ。自分がそれを好きだと思えば、その好きを何処までも尊重していけば、それでいいんだよとそう今の社会はいう。何もかも個人の意見を第一に尊重する。でも、こうした在り方が、この社会のエントロピーを急速に増大させている事は間違いない。

何のルールも、そして規制も作らない。何もかもその時の個人の主観的感情によって判断し、そして決定する。何をおいても、その人が何をどう思っているかが一番大事。それを尊重する事こそが自由。

今この世界は何でもかんでも自由になってしまい、何もかも全部その個人の主観的感情によって決めてしまっているといった感じがするが、本当にそれでいいのだろうか?

何もかも、個人のその時の主観的な感情によって、決定していく事が、それを第一に尊重し、そして生きる事が一番大切な事なのだろうか?と思ったりする。

老子の言葉に、あまりあるを損して足らざるを補うという言葉がある。

私たちはこの老子の言う言葉の様に、その時々で、何を与え、そして何を削りとるか?という事を考えていくべきなのかも知れない。ただ相手を尊重し、何でもかんでもその相手の言うと事をするのがいい事だとは思わない。

そもそも相手を尊重するとは、そう言う事では無い気がする。何でもかんでも、いいよではなく、その相手にとって適切なものをその時々で与えたり、そこから引いたりして、その相手にとって一番いい状態を作り出してあげる事が、その相手を本当の意味で尊重するという事になるのではないだろうか?と思ったりする。

何でもかんでもいいよ、いいよで与えていたら、いつかその過剰にいいよを与えられた子たちは、その過剰分で必要以上に満たされ、その身体も心もくさってしまうかもしれない。植物だって、過剰に水を与えすぎれば根が腐ってしまう。なんにでも、塩梅というものがある。ありすぎても、なさ過ぎてもいけない。その匙加減は、いつも毎日同じではない。毎日、そのものの状況をよく見て、把握して、必要なものを必要な分だけ、適切な時に与える。これができなければ、植物はいつも簡単に枯れてしまったり、根腐れを起してしまったりする。

今のこの世界は、ある意味、何でもいいよで根腐れを起している様な気もする。必要なものでないものも、いいよ、いいよで受け入れ、私たちはそこから必要のないものを引く事がない。何でもかんでもいいよいいよ。それが個人を一人の人間として尊重する事だと思っている。今私たちがやっている事は、個人を尊重し、その成長を促す動きではなく、その個人を否定し、成長を止動きをしている様に私には思えて仕方がない。

いいよ、いいよでよく子供の自律性を積極性を伸ばす事が出来るとそう言うが、何でもかんでもいいよいいよが、子供の自律性や積極性を伸ばす訳ではないと私は思う。

何でもかんでもいいよ、いいよが認められ、何でも自由が認められるのなら、私たちを監督する親など必要がなくなる。親のもつ役割など何も必要がなくなる。

今この世界のエントロピーを増大させている力は、この何でもかんでもいいよといい、それで個人を尊重している気になっている人間たちなのかもしれない。

私たち人間というのは、ある程度の秩序やルールというものがなければ意外に、自分の事など統制出来ないものなのかも知れない。何でもかんでも自由にして解放すれば、もしかしたら、この世界は恐ろしいほどにめちゃくちゃになってしまうのかも知れない。そうならないためにも、私たちは今一度自由であるという事が一体どういうことなのか?という事をそれぞれが考え直すべきなのかも知れない。今私たちが行っている自由これを続ければ、いつか必ずこの世界は何もかもが統制が取れなくなりめちゃくちゃになる。だからと言って、あまりに規則やルールで縛りつけすぎても、それでも、この世界や社会は維持できない。

私たちは、このどちらでもないちょうどいい塩梅という地点をこれから探り出さなければいけないのかも知れない。


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