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生きる

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ー破壊そして再生へー
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#ビジネス

私たちには、力がある。(依存ではなく創造へ)。

もっとい色々な事を自分の頭で考えよう。私たちは、毎日考えるという事を少しずつ奪われている。何も考えなくてもいい様に、この社会はどんどんどんどん便利になっている。 私たちは、何も考えなくていいように日々され続けている。何かに注目させたり、新しいものを開発し、それに夢中にさせておけば、人間というのは、他の事を考える事はない。 私たちはいつも何かに関心を向ける様に仕向けられている。どうでもいい事に私たちの意識が上手く捕らわれる様に、この世界は作られている。 今のこの世界を見て

食っても食っても腹にたまらない幸福感

私たちは、毎日幸福という奴を貪り食っている。この幸福を貪り食うために、毎日必死に働いている。 幸福感、それが欲しいから、私たちは毎日汗水たらして働く。そしてその働いた報酬としてお金をもらい、そのお金で幸福感というものを買って自分を満たしたつもりになっている。 どれだけ働いても、私たちは、この腹が一杯にならない。沢山働いて、多くのお金を手にして、そのお金を持って、幸福感ってやつを多量に食らう。でも、どれだけ、その幸福感というものを食べても、すぐに又その幸福感ってやつをこの腹

綺麗に整っていないからこそ、人間は美しいんじゃないだろうか?

皆、同じものを見て、同じように反応する。何もかも皆、右に倣えで一緒。 誰かと少しでも違った反応を起こすと、この社会は、何故か、その皆と違った反応を起こす人を排除する。 こうした事に、私たちは何も疑問を抱かない。何でもかんでも皆一緒にしようとしている。私たちはおかしな生き物。でも、その事に気づかない。 学校教育は、何でもかんでも、皆同じにしようとする。他人と違う子は、学校では歓迎されない。いかに全体に馴染みよく生きられるか?これが学校教育での一つの指針となる。 何でもか

私たち人間は感情の奴隷

私たち人間は、自分の取る行動の本当の意味を知らない。ただ何となくそうしたいから、そうしているだけであり、何故、自分がこういった行動を取るのか?その本当の理由は何も知らない。 私たち人間というのは、自分の意思を持って自分のありとあらゆる行動を決めている様に思えるけれど、でも実際は、そこに自分の意思など殆ど反映されてはいない。私たちは、自分で自分の取る行動を意識的に決めているのではなく、自分の中にある感情というものによって、自分の取る行動を決められている。つまり、私たちの行動の

人生に屈するな、戦え。

往生際の悪さ。 私という人間は何処までも欲深い。自分というものを何処までも追求していきたい。今あるこの自分というものに、私はそう簡単に納得する事が出来ない。 周りを見ていると、皆いとも簡単に自分の人生に納得しているかのように見える。納得しているというか、もう自分の人生と闘う事を諦めてしまっているのか? 自分を生きると考えた時、そう簡単に自分の人生に納得する事が出来るだろうか?私は、自分のこの人生に負けたくはない。だから、一生この自分と闘い続けるつもりでいる。 これが自

いついかなる時でも自分を問う

私たち人間というのは、しっかりと色々な事を意識して生きていないと、この心というか、精神はすぐにバラバラに砕けていく。自分を一つの塊として維持していくには、その1つの塊である自分を常に意識し続ける事が必要になる。 何もせずにただこの流れる時間にその身を委ねて生きて行けば、自分というものは維持する事が難しい。エントロピーの法則ではないが、私たち人間というのは、常に自分に意識を向け続けなければ、この私というものは、簡単に複雑化し、乱雑になる。 自分の部屋も、常に自分で綺麗にしよ

私たちは社会に飼われた社畜じゃない。人間なんだ。

皆、元の生活に戻りたいとそう言う。今せっかく自分が社畜から抜け出せるチャンスなのに、私たちは、又この社会に飼われた社畜に戻りたいという。 今、私たちは本当の意味での人間になるチャンスを得た。この社会に飼われた状態から、私たちは今抜け出すチャンスを得ている。でも、私たちはまだ社畜の状態にとどまろうとするというか、社畜に戻りたいとそういう。 自分に何の力も持たずに、ただ社会に与えられ誘導されるがままに生きるそんな世界に私たちは又帰りたいとそう言う。 自分の意思で動いているの

鳴かぬなら殺してしまえホトトギス 鳴かぬなら鳴かせてみようホトトギス 鳴かぬなら鳴くまでまとうホトトギスに見るこれからの生き方

日本人ってのは、この3武将の中で言えば、家康の鳴かぬなら鳴くまでまとうホトトギス思考だと思う。 ずっと、特に何をする訳でもなく、信じて待つスタイル。これが日本人の典型的スタイル。 未来は明るい。それを信じて、ずっとその明るい未来がやってくるのを待っているのが、日本人。日本人ってのは、自ら幸せというものを取りに行こうとはしない。ただひたすら、いつやってくるかもわからない希望に満ちた明るい明日を信じて待ち続ける。それが日本人。粘り強く、待っていれば、いつか必ずいい事がある。そ

過ぎたるは及ばざるが如し

自分の中に恐れの感情を持っている事はとても大切な事。 でも、この恐れの感情を強く持ちすぎていると、私たちは悪に転じてしまう。逆にこの恐れの感情を持たなすぎても、私たちは悪に転じてしまう。 ありすぎることは、悪であって、又、なさすぎるのも又悪になる。 人間として機能するには、この両端をバランスよく自分の中で維持しないといけない。 義務感。これも持ちすぎていては自分が破綻してしまう。逆に持たなすぎても、自分が維持できない。これも又人間が悪に転じてしまう一端となる。 罪悪

2D人間と3D人間(一般人の思考と大富豪の思考)

物事を平面的にしか捉えられない人は、2D人間。 物事を立体的に捉える事が出来る人は3D人間。 この両者が互いに理解し合う事は難しい。 2Dの眼で世界を見ている人に、3Dの世界の事を話したとしても、その人にとっては、それを2Dの認識でしか受け取れない。 お互いに話せば、理解し合えると言われるけれど、物事を平面的に捉えている人に、いくら立体的な話をしたところでそれらを彼らが理解することは出来ない。 見ている世界が全く違う。持っている視点が全く違う。だから、この両者が相容

所有する時代から手放す時代へ(エコ的時代の到来)

私たちは今多くの物を所有しているが、これからはその今所有しているものの殆どが何の価値も持たない時代になってくる。 こんな事を言ったら、ほとんどの人は何言ってるの?とそう思うかも知れない。でも、こうした時代は確実に来る。 私たちはこれからエコなる時代に入って行く。あれもこれもそれも皆自分の物と言って所有していた時代はもうそろそろ終わる。これからはより多くの物を持つ事ではなくて、どれだけ自分の持っているもの、所有しているものを少なく出来るか?という時代が来る。というか、もう皆

虚構の世界で生きる私たち

私たちは教育される事で、何も考えなくなった。何もかも与えられるその知識を盲目的に信じ、自分で自発的に何かを考える事をしなくなった。 今の私たちを駄目にしてしまったのは教育。与えられる知識。 私たちは教育され、同じ知識を教えられ、それに何の疑いも持たずに、知識を得る事は素晴らしい事であり、生きていく上で知識は必要だ!という事を信じ込まされ、皆同じ知識を持つ様に教育されてきた。 この教育によって、私たちは自発的に考えるという事を奪われた。 私たちとは、生まれてこのかた全て

何故?どうして?その問いが自分を救う

何でなんだろう?といちいち、自分の取る行動、言動について問う。 こうする事で、何故、自分が今そう言う事をしようとしているのか?を明確にする。自分の中に一体どういった思いや考えがあり、それがどの様に自分の中で動いているのか?を知る。 私たちは意外に、自分自身の行動について、何故自分はこうした事をしているのだろう?と問うことがない。 自分の中にある感情に引きずられて、特に自分で何かを意識する事無く、色々な事をしていたりする。 何故、自分が今此処にいて、こうした事をしている

感情的反応型人間の回避人生

なんかむかつく。なんか気に入らない。そう何かに自分が反応した時というのは、ある意味自分を知る大きなチャンスだったりする。 何かよくわからないけれど好かないなあと思う時、その時、私たちはその対象となるものから何らかの影響を受けているという事になる。 何の興味も関心もなければ、私たちは何にも反応しない。でも、あるものに反応し、そこに何らかの否定的感情を抱くとき、そこに自分でも知らない何らかの感情というものが隠されているという事に気づく事が出来る。 自分の中にある何かが、刺激