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生きる

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ー破壊そして再生へー
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子育てにおける天使と悪魔

ミラレパ(1052年-1135年)は、チベットの仏教業者・聖者・宗教詩人で、一生のうちに仏陀の境地を成就した偉大なるヨーガ行者として、尊敬を集め、万物に愛されている最も有名な一人です。 以下は、そのミラレパが残した言葉。 男の子だけ責めるのは不公平というもの、さらにミラレパはこう語る。 この言葉は、生まれてきたわが子というものに過度な愛情をそそぐ事の愚かさを謳っている。 初めてこの言葉に触れたとき、何故か心をグッとつかまれた。 あまりにもその通りだったからだろう。

わたしたちは人生に意味を見いだすことを求めている

今日もV・Eフランクルについてかこうと思う。 以下に示すのは、フランクルの言う人間の根本意思の3つです。 フランクルは、快楽への意思を生理的欲求年、力への意思を社会的欲求、自分の提唱する欲求を実存的欲求とした。 誰もが皆、自分の人生に何らかの意味を求めている。しかし、その意味の充足がなされないとき、このフロイトとアドラーのそれぞれの欲求が生じてくるとそうフランクルは説明している。 まさに、その通りだなと彼の本を読んでいて深くうなずけた。 自分の周りもこのフランクルの言

求めずともそこにある

皆さんは、この言葉を知っていますか? これは臨済宗の高僧である白隠禅師の言葉です。 これは、まさに今現代の私たちの事を言っているかのように私には感じます。 私たちは、自分の足下を見ずに、遠くに視点を移して、その遠くに何かがあることをいつも期待して生きている。 しっかりと自分の足下を見れば、そこには必要なものはある。 でも、それに気づく事はなかなか難しい。 私たちの求めるものは、何故か自分から遠く離れたところにあると、そう言った幻想を私たちはもっています。 なので

力が抜けない私たちに送る宮崎駿の「君たちはどう生きるか」

先日、宮崎駿の「君たちはどう生きるか」を見てきた。 皆、いろいろな意見があるので、わたしもこの映画の感想を書こうと思う。 わたしがこの映画を見て感じた事は、宮崎駿はもうみんなのために頑張るのをやめたんだなっということでした。 これまで、皆の腹を満たすための映画、つまりはただ消費されるための映画を作ってきた。宮崎駿自身は、その自分の作る映画の意図がしっかりと見る人の心に届いているとそう信じて製作を続けてきた。 でも、その皆の心の奥深くにある光に届くと信じて書いてきたもの

雑草という概念(意味と排除)

最近、ガイアの思想という本を読んだり、ホールネスという考え方をに接したり、無境界という言葉に多く接する機会があった。 それで、こんなことを思った。 草、それって一体どこの誰が、草という概念を作ったのか? 草という概念を作って、もっといえば、雑草という概念を作って、ほかの植物と差別化を図ったのはなぜなのか? そんな事を疑問に思った。 わたしの考えでは、基本この星に生まれてくるもの、生命を与えられ、生まれてくるものは皆、何らかの意味や目的があって生まれてくるものとおもっ

日々を丁寧に生きることの大切さを学んだ

ふと気がついた。 自分がいつからか、自分の人生を丁寧に生きる事をやめてしまっていたこと。 別にいいやといって、いろいろな事が適当になって、それが徐々にたまっていって、恐ろしいことに、すべてが自分にとっての当たり前だと思うようになっていたこと。 何もかも、当たり前で生きていた。 だから、感謝なんてしたことない。 すべてが当たり前のように手に入るこの世界の中にいて、わたしは人間として一番大切なものを失ってしまっていた気がする。 それは、感謝だ。 自分に与えられている

ティ―ル(進化型)と肉体に囚われた魂

これは、ティール組織という本の中に出てくる一文です。 自分が埋没している世界、環境から自己を切り離すとは?わたしたちは皆、自分の世界の中に生きている存在です。何を決めるにも、判断するにも、その全ては、この自分の肉体を通した感覚世界によって決定されています。 自分が何かに触れたり、感じたり、頭を使って考えたり、全て、私たちはこの自分の肉体を通して外の世界にあるものを知覚しているという事になります。 つまり、この肉体というものが存在しなければ、私たちは何も認識することも、知

<終末の人間>とはわたしたちのことなのかもしれない

ニーチェのこの言葉を知っていますか? この言葉にはじめて触れた時、何とも言葉にしがたいものをニーチェにつきつけられたそんな気がした。 今の時代は、まさに虫けら同然の人間ばかりになってしまっているのかもしれない。ぬくぬくとした場所に逃げ込みというのは、自分を誰も否定しない、言ってみれば、自分ワールドの事。この自分ワールドの中で暮らしていれば、誰とも接触することはなく、ただ自分だけが幸せでいられる。 ニーチェは、この自分ワールドの中に自分に都合の良い人間を引き入れて、そのも

日本人という種(形なきものの形を見、声なきものの声を聞く)西田幾多郎

この言葉は今この現代を生きるわたしたちにとってとても重要な言葉であると私は考えています。 わたしたちは日本人でありながら、その思想は今や西洋の思想「有」の思想にどっぷりと浸かってしまっています。 西田幾多郎が言うように、東洋文化の根底には、「無」の考え方が潜んでいた。東洋文化には「形なきものの形を見、声なきものの声を聞く」といった「無」を求める要求がある。 でも今現代を生きるわたしたちには、もはやこの西田のいう「形なきものの形を見、声なきものの声を聞く」という事が出来な

きちんとするってなんだ?

ニ、三日前から、千葉雅也さんの現代思想入門という本を読みだした。 この本の冒頭に「現代ではきちんとする方向へと、色々な改革が進んでいて、それにより、生活がより窮屈になっている」という文言がありました。 きちんとする、ちゃんとしなければらなない。逸脱を取り締まって、ルール通りにキレイに社会が動くようにしたい。 これはまさに千葉さんのおっしゃる通りで、わたしたちはいつからか、綺麗なものこそが一番素晴らしいものだという幻想にとらわれるようになってしまったと私自身も強く感じると

進撃の巨人(壁の中の人間)

進撃の巨人の冒頭にアルミンが言う強烈なセリフがある。 この言葉は、この物語を見るものに対する著者の強烈な皮肉なのではないかといつも思わされる。 現代に生きる私たちは、今まさにこの状態。 今までが何もなかったから、これから先も特に何もなく穏やかに暮らしていけるだろうといった安易な気持ちで日々、大人たちは特にこれといった緊張感を持つ事もなく生きている。 このアルミンの言葉を聞くたびに、これと似たような事を言うエレンの言葉を聞くたびに、私は自分の心がえぐられる。 彼らの言

私から、私ならざるものへの移行

何もかもが解体されて、私たちはどんどん無気力になっていく。この流れは、これから益々加速する。 私たちは大切なものからどんどんとその身を引き離されて、解体されて行く。大切なものとの繋がりが段々と失われて行く。かつて自分と共にあったそのありとあらゆるものが、自分から切り離されていく。そしてそれらは徐々に自分から遠ざかっていく。そうしたものが自分の元から遠ざかれば遠ざかるほどに、私たちは、自分を失う。 今この時代はものすごいスピードで私というものを解体しようとしている。私という

未来を予見し、今を構築する力を。

これからは、しっかりと色々な事を考えて行動しないと、生きていけなくなる。適当に、その場限りの誤魔化しで生きていけたのはこれまでの時代。これからは、何も誤魔化す事は出来ない。嘘をつく事も、隠し事をする事も、自分を偽る事も出来ない。他人を欺く事も、自分に嘘をつく事もその全てが罪になる。そんな時代が来る。 全くのクリアーな人間しかこれからは、生きていけない。今の内に自分の心の中にあるものを全てさらけだし、その全てとしっかりと対峙し、それなりに自分の持っている問題を解消しておかない

色をもっと効果的に使おう!

もっと生活に色々な色を取り込めばいいのに、意外に皆色々な色を取り入れずに、なんとなく無難な色でまとめてしまっている。皆が着ている洋服も、外に出れば、田舎なんて特に、黒やグレーばかり着ている人だらけだったりする。色は効果的に使えば、沢山いい事があるのだけれど、その色の効果を知らない人は、何故だか意外に生活そのものに色を取り入れずに、なんとなく無難な色でまとめてしまう。これってすごくもったいない。 人間というのは、自分の目にする色というものから多くの刺激を受けていたりする。色を