障害のない社会は、「寛容な社会」と「相互理解」からなのか
はじめに、わたしはパニック障害と双極性障害になりました。現在、精神障害者保健福祉手帳申請中です。
障害は、社会の側にある。
障害は、本人ではなく「社会」の側にある。
このような考え方を、福祉や障害、社会課題、NPO、ユニバーサル/インクルーシブデザインなどに関わる人はよく耳にすると思う。これは、2006年に国連で採択された、「障害者権利条約」の条文に掲載されているもので、「障害の社会モデル」という考え方。
障害を個人の欠陥だとする「医学モデル」
ちなみにその逆で、「障害」は個人の身体的・精神的な欠陥や不全の問題だとする医学モデルもある。この場合、個人の問題であり「仕方がない」と捉える傾向がある。
障害の定義は常に変化し
時代の変化や、社会の理解、ノーマライゼーションによって「障害者」の定義も変わってきているが、現在は障害及び社会的障壁により継続的に日常生活又は社会生活に相当な制限を受ける状態にあるものをいう。
(日常生活の過ごし方や、"相当な制限"と感じるか否かは当事者本人にしかわからないものだとするならば、とてもグラデーションのある捉え方なのかも。)
社会側にある障害を、ポップになくしていきたい
多様な人も、動植物も、地球環境も、誰もどれも取り残さない「オールインクルーシブ」な社会実現を目指す私は、そんな社会側が変わるきっかけづくりを、どこかポップで、義務ではなく「やりたくなる」ものとして生み出すことに必死になってきたきがする。
ちなみに、これまで、この考え方に共感してくださった企業・自治体・ソーシャルセクターのみなさんとやってきたことがここにまとまっています。(関わってくださった皆さん、本当にありがとうございます!)
社会課題解決に特化した企画・PRの会社を運営して5年目👇
そして最近は、「ファッション」におけるそのヒエラルキーや課題解決に向け、障害の有無やセクシュアリティの違いなど関係なく、自分の好みに合わせてカスタマイズができるファッションブランドを立ち上げて2年目です👇
これから付き合っていくことになる「障害」との出会い
そんな私が、そういえば、これから付き合っていくことになる「障害」と出会いました。障がい者になった、なのかな。
自分が「これ」なの?と、まだあまり実感できていないけれど、障害を「抱える」?ことになりました。なったというか、そうだったけれど気づかずに生きてこれた、という感じかもしれない…
まだ、ちょっとよくわからない😇
(障害って抱えるという動詞が後ろにつきがちだけど、やっぱ抱えるんじゃなくて、違う動詞がありそうだなとおもう。でも一旦他が見つからないのでこれで)
はじめまして、新しいわたしの側面。
仕事をする中で、なんだかみんなと感覚があわないなーとおもったら、自分は青色の濃淡?の識別が苦手な人だということに最近気付いたり。めちゃくちゃ長話をしてくださる方と話すと(ちょっと悪口)、たぶんストレスなのかな?左耳が聞こえなくなる傾向があったり。長い時間登壇したり、電車に乗ると不安になってトイレにめちゃくちゃ行きたくなったり、酸欠っぽくなってめまいがしはじめたり…
30代前半から中盤にして、私自身の、私の知らない側面との出会いがたくさんありました。はじめまして、新しいわたし。
一応、この障害らしい
色覚異常(青色がよくわからない、多分みんなと違くみえる)
蝸牛型メニエール病(左耳の中音が聞こえにくい、急に聞こえなくなる)
パニック障害(トイレよく行きたくなる、目眩がして思考停止になる)
一応定期的な健康診断とか、ちょっと不調だなという時に病院でみてもらって教えてもらったので、嘘ではないとおもうのだけれど、そうらしい。でも、まだよくわからない。
元はと言えば、それも障害だった時代がある
私は小さい頃から目が悪くて、ずっと眼鏡かコンタクトレンズをして生きてきている。高齢化に伴って視力が悪くなったり、若い頃から視力が悪い人は、コンタクトレンズや眼鏡、レーシックがない時代は、日常生活に支障があるとし「障害」であったけれど、いまやそれはファッションアイテムの一部となっている。
そういえば、私は小さい頃から皮膚疾患やアレルギーもあって、今でも夏は汗をかくと皮膚がボロボロになってしまったり、肌に布が当たるだけで痛いので外に出たくなくなることが多々ある。大人になってから奮発したオーガニックのボディクリームや、大好きなLUSHのボディスクラブもそんな肌には意味をなさない。
でも通勤せずに家やカフェで仕事ができるようになって汗をかく機会が減ったり、肌に優しい素材の服の選択肢が増えたり、選択可能な選択肢が増えてきたから今はそこまで気にしなくなっている。
社会の側に障害がないと、気づかれにくい。
これ、ただの持論なので、「え、何言ってるんだ!そんなことないぜ」という人もいるかもしれないんですが、普段暮らしている「社会」側に障害がないと、自分がその障害の当事者だということに気づきにくい、気にしなくてもいい状態になるのかもしれない。
ちょっとこれもまた小さな悪口になっちゃいますが、一緒に働いている仲間がわたしの癖?状態?を知っているので、あきらかに長話をしそうな人がいたら私の代わりに対応してくれるので、耳が聞こえなくなることが少なくなったり。(笑
長時間のミーティングや登壇が苦手なのを知ってくれているメンバーは、定期的に休憩をつくってくれたり、私がでなくてはいけないミーティングを減らしてくれたり。
どれもありがたいことに、「助けてあげよう」というスタンスではなく、「はーい、おっけいです」くらいのノリで理解して対応してくれるので、わたしも気持ちよく甘えられるし、逆に相手が困ってそうな時は気軽にサポートに入りやすかったり。
だから、病名をちゃんと言われるまでは、全く気づきませんでした。
(ありがとう、みんな)
(でもこうして寛容である状態の「社会」を自主的に選択できていることや、「寛容」になりやすい集団にいることができるということは、誰にでもできることではないとおもう…)
障害者が障害の有無を発言し、周りがケアする、の先へ
まだまだ難しいとは思うんですけど…
何かしらの障害やマイノリティ性のある人が、カミングアウトをして、さらに周囲に理解を促さなくてはならないのは、二重の負担がかかっているとも言えるんじゃないかとおもうんです。
0か1か、YESかNOか、白か黒か。
そうじゃなくて、どれもがグラデーションなのだとおもう。
だからこそ、お互いがお互いの違いを相互理解をし、寄り添っていけると、障害の有無で語られる、ケアする側される側という関係性ではなく、「みんな」という枠組みで一緒に語り合えるのではないか….とおもったりします。
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