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★連載30★地球での課題(人はなぜ悩み苦しむのか)②               

『苦しみの原因は自分自身の価値観であり、自分自身のルールが原因であった。』

という、私なりの答えに辿り着き、どう捉えていけば良いかという事に向き合った結果

大切な事は、
違う価値観と出会ったら、強制をしたりせずに、価値観が違うよね。って所を認める事なのです。

そして、違うからこそ、どうやって、一緒にやっていこうか?互いに考える事が大切な事なのです。

分かり合えないからこそ、一緒にやっていける方法を探っていく。それこそが魂の成長なのです。

そこからの続きになります。


☆価値観に良いも悪いも無い


そもそも、良い価値観、悪い価値観というものが存在していません。自分の価値感全てが正しいと捉えている方は、私はお付き合いをご遠慮させて頂いております。

それは、価値観が違うよね。と認め合う事が出来ないからです。歩み寄る事ができずに、攻撃し合う事につながるのが分かるので、最低限のお付き合いにさせて頂いています。

そんな価値観もあるんだね。
そんな捉え方もあるんだね。
そんな考えもあるんだね。

相手を変えようとするのではなく、相手の価値観を認めるという事であり、それは、相手の存在を認める事につながるのです。

これがなぜ、魂の成長になるか?

違う価値観と触れた時の、自分自身の対応の仕方です。そして、それを受け入れる事ができたら、違う価値観、違う捉え方、違う考え方と、自分の価値感の中では得られる事のできなかった、価値観を知る事につながるのです。

自分の人生の学びの引き出しに、入れさせてもらう事ができるのです。

知るという事です。
知る事は気付く事につながるのです。

例に出して話をします。

暇と多忙
これは対義語になります。反対の意味を表す言葉になります。

暇が良い事と捉える人と、暇が悪い事と捉える人。
多忙が良い事と捉える人と、多忙が悪い事と捉える人。

どちらの価値観も、正しい事でも、間違いでも無いと思いませんか?

暇を悪い事と捉える人は、暇を良い事と捉える人の話を聴いてみれば良いのです。

多忙が悪い事捉える人は、多忙が良い事と捉える人の話を聴いてみれば良いのです。

これが、学びと成長につながるのです。
色々な価値観に触れる事こそが、魂の学びと成長でもあるのです。

違う価値観に触れると、驚きや発見にもつながります。

そうする事で、暇でも、忙しくても良いと感じられる自分を知る事につながるのです。

どちらか1つを選択しなくてはいけないのではなく、どちらも選択しても良いという選択肢が在って良いのです。

選択するのは自分です。
決めるのは自分です。


☆価値観だと騙されてきたもの


よく言われている事に、

「普通は~だから」
「一般的に~だから」
「常識で~だから」

という言葉、私自身も今まで沢山使ってきました。

ですが、よくよく考えてみると、

・普通と言われる普通は、何を基準に何を捉えて普通という言葉のカテゴリーに分けられるたのでしょうか?

・一般的にと言われる一般的とは、どこをどのように捉え、何を基準にし、一般的という言葉のカテゴリーに分けられたのでしょうか?

・常識と言われる常識とは、どこで言われている常識なのでしょうか?

そのように捉えてみると、これら当然のように使われてきた言葉って、都合の良い時に使われるものであって、実践的な言葉では無いように感じました。

曖昧なのに、その曖昧なものを肯定させるかのように使う言葉だと私は違和感を感じていたからです。

因みに、私は、同じ価値観なんて存在しない。というのは、中学生の頃から感じていました。

そして、更に、
私の考える普通~だ。という考えと、他人の考える普通~だ。というものが、一致しないのも、何となく分かってはいないでしょうか?一般的にと言われる事や、常識と言われる言葉も同様です。

全く同じ価値観は存在しないのですから、私が思う普通と、相手が思う普通は違って当然なのです。

義務教育の中の集団生活では、『みんなと一緒』何たるマジックにかかっていたように思います。

『みんなと一緒』の事をする
『みんなと一緒』に意見を合わせる
『みんなと一緒』に行動をする

自分1人だけ別の事をしたり、別の意見だったり、別の行動をすると、先生から注意されていましたよね。

これが、『みんなと一緒』マジックです。

いつしか、『みんなと一緒』を選択するようになり、『みんなと一緒』にするにはどうしたら良いかと考えるようになったのです。

こうして、個性というものは、自分の後ろに姿を隠し、そのまま大人になると、自分の後ろにすら姿を見せなくなってしまった自分に気付く事になるのです。


☆価値観である基準は、どこに存在しているのか?


価値観の基準のようなものは、義務教育での集団生活の中で教えられてきた事だけではありません。

その後、人生経験を経て、個々それぞれの価値観を形成していきます。

そして、自分の価値観が、100%実現しているのが、自分自身の内側である、精神世界の中だけだったりするのです。

自分の内側にある感覚なので、外も同じように感じます。そして、『引き寄せの法則』からの『鏡の法則』であるように、自分の価値感が、外へ映し出されてもいるのです。

日常的に、自分の価値感が外へ移し出されているのですから、常に自分の価値感と外との現実を擦り合わせするかのような出来事が起きるのです。

「これが絶対に正しい」と捉える事があるのならば、「これが絶対に正しい」と思えるような逆な現象、現実が鏡のように映し出されるのです。

行列に並んでいて、「割り込む事は絶対に許されるべき行動ではない」と思っていたとします。そうすると、実際に自分自身が割り込まれたりします。

割り込む事は絶対に許されるべき行動で無いと捉えているのですから、そのまま、自分自身の前に割り込まれ、「割り込む事は絶対に許されるべき行動ではない」と感じる出来事の体験をしているという事なのです。

自分の内側にある精神世界の中に価値観が存在しているので、自分の価値感に意識を当てると、それが現実化もするという事なのです。

自分の価値感こそ、『人の振り見て我が振り直せ』につながるのかもしれません。


☆『みんなと一緒』に隠されていた罠

『みんなと一緒』マジックと同様に、自分自身も『みんなと一緒』だろうと思い込んできたものがあります。それは、普通、一般的、常識と言われるものになります。

自分の中(価値観)に、「普通は~だ」
自分の中(価値観)に、「一般的は~だ」
自分の中(価値観)に、「常識は~だ」
が、存在しているのです。

だから、これらも、自分が普通だと捉えている事が、相手の普通で無かったりするという事なのです。

自分の考える普通が、世間で言われている普通だと思い、自分の中での価値観である、普通という状況を創り出しているという事なのです。

これに辿り着いた時、普通という普通は実は存在していないし、一般的にという一般的も存在していない。常識も存在していない。

何か、幻を視ていたような感覚でした。
「自分の中だけに存在していたんだ。実は。」
拍子抜けしました。

「普通の幸せで良い。」
「一般的な幸せで良い。」
「常識の範囲で良い。」

何気に目指してしまっていたからです。

ですが、その価値観や基準は自分の中だけに存在していたという事です。

自分だけの価値観、自分だけのルールでもあったと言えるのです。

それを知ってから、普通という言葉や、一般的にという言葉、常識という言葉を使わなくなりました。誤解を生む事も感じていましたので。

『みんなと一緒』マジックで教え込まれてきたり、教育されてきた結果、本質を見失う事になったのです。

いつしか、『みんなと一緒』から、更に仕向けられるのです。『みんなと一緒』の位置から、自分だけが飛び出せる方法。それは、

「競争して勝ちなさい。一番になりなさい。結果を出しなさい。」

そう教育する事で、他人と比べ、他人と競争するのが当然のような社会に変化してきたのです。


10人集まれば、10人の価値観が存在し、普通、一般的、常識と捉える事も10人分存在しているという事なのです。個人の中に存在しているという事なのです。

そうなると、普通というものは本当に存在するのか?一般的にというものは本当に存在するのか?常識というものは本当に存在するのか?

これらの疑問が解けるのでは無いかと思います。

存在しているのは自分の精神世界の中だけだという事に気付くと、今まで、何をしてきたのだろう。と感じる事にも繋がるのです。

「何を選択し、何を体験し、何を味わっていきたいか。」

価値観や価値基準ではなく、本当の自分自身の声を聴いて、歩む事こそ、求められているのだと、私は感じてなりません。


この記事に辿り着いたのも、偶然ではなく必然です。
少しでも、あなたのお役に立てたら幸いです。

一人でも多くの人が、最期まで自分らしく、幸せに過ごせますように

最後までお読み頂きありがとうございました
次回もお逢いしましょう♬


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