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★連載33★地球での課題(人はなぜ悩み苦しむのか)⑤              

善と悪というものは、そもそも存在しておらず、自分自身の内側だけに存在しているという事。

そして、善と悪も、自分自身の価値観の『自分ルール』という、自分の心を守る為に導き出した、過去のデーターが、『善と悪のジャッジ』をしているに過ぎないという事。

そして、私たちは知らず知らずの内に、自分と違う価値観に触れると、『善と悪のジャッジ』をし、『自分ルール』に当てはめて考えてしまうのです。

そして、余計なお節介へとつながってしまうものでもあるのです。


☆小さな親切、大きなお世話


ありがた迷惑とも言えるような、自分は助けや手伝いを求めていないのに、助けてくれる人や手伝ってくれる人っていませんか?

これこそ

小さな親切、大きなお世話

であり、私は、言葉の意味をよくよく考えたら、「あ、私、けっこうしてきたかも。」と感じたのです。

私自身、だいぶ、この長い人生でしてきたと思っています。今も多少しているかもしれませんが、ふと、我に還り、「これ以上は、私は関わらない方が良い。」と自分で境界線を引くようにしています。

それは、私の価値観の中の『自分ルール』で、勝手に判断した結果に過ぎないという事を理解したからなのです。

私は相手が、助けて欲しいと思っているのに、助けて欲しいと言えないのだろうだから、私が自ら助けてあげよう。手伝ってあげよう。

と、勝手に自分自身で判断していたという事が分かったからなのです。自分の価値感の中の『自分ルール』それは、自分だけのものであり、他人や相手とは共通では必ずしも無いという事だからです。

それまでの私は、小学校からの教えが染みついていたのです。

「困った人がいたら助けましょう。」
「困った人には親切にしましょう。」
「困った人がいたら手伝ってあげましょう。」

しかも、率先して行う事が、相手への思いやりにつながるとも言われていました。

これらの「人には親切にする」という教えが私の中の価値観の中の『自分ルール』にはあったからです。道徳の授業でも習った方は多くいらっしゃると思います。

この言葉の通りに行動している人って、実は沢山いるかもしれないと感じたのです。

困っている人って、素直に「困っているから助けて下さい。」「困っているから手伝って下さい。」と意思表示できる人たちばかりでは無いと思っていたから尚更です。

ですから、それこそ自分の価値感の中の『自分ルール』に当てはめて、どのような状態や、どのような言葉か、どのような表情かっていう事を私はきっと、過去のデーターに保存してるのだと思います。

それらの『自分ルール』に当てはまった時に、それに対応した行動や言葉をしてきていたと思うのです。

そして、それらのデーターに当てはまった時に、「助けたり」「手伝ったり」と、相手に言われる前に介入してしまっていました。

自分の中では「人助け」「困った人に親切にした」と感じる機会でもあったのです。

ですが、自分にとっての人助けや親切な行為は、それが上手くいく時もあれば、助けたり、手伝う事で嫌な顔をされたりする事がありました。

「せっかく助けてあげたのに。」
「せっかく手伝ってあげたのに。」

自分自身が後悔するような事がありました。

そのような事があると、「人の行為を無にした」と捉える事になります。

そして、せっかく良い事をしたと思っていた自分の感情は、一気に突き落とされる事になるのです。そして、相手を「自分の優しさや親切を受け取らなかった嫌な人」と感じる事にもつながります。

そして、色々と自分自身の中で思考を駆け巡らせるのです。

「あの人は助けてほしく無かったのか?」
「あの人は手伝ってほしく無かったのか?」
「私は余計なお世話をしてしまったのか?」

自分で良かれと思った事が相手の良かれにならなかった出来事になるのです。

そうやって、小さな親切、大きなお世話と他人や相手に受け取られてしまう言動を私はしてきてしまっていた事に気が付いたのです。

そして、もっと大切な事も忘れてしまっていた自分に気が付きました。

「相手が助けて欲しいか、手伝って欲しいか、当の本人に確認する事」この確認作業をする事を怠ってしまっていたのです。

率先して行う事が、更に良い行いにつながるとも考え、何よりも相手への思いやりにつながると捉えていた私です。

ですが、このような体験をすると、どのようにすれば、私も相手も気分を害する事なく関係を築く事ができるか?という視点で考えるようになりました。

私が足りなかった行動は、相手に確認するという事だったのです。

相手に聞く事が大切なのです。相手が望んでいない事を私がすれば、相手は気分を害するのは当然の事だとも言えるのです。

言葉をかける事がとても大切だという事に気付く事ができました。

自分が良かれとしても、相手が良かれと捉えてもらえなかったら、ありがた迷惑でもありますし、小さな親切、大きなお世話に繋がってしまうという事。

それを体験させてもらいました。

率先して行う必要も、もちろん無いのです。
自分が困ったり、助けて欲しいと思っていなければ、私が思う人助けや手伝う行為は、単なる迷惑になってしまう。

だとしたら、自分が助けられる状況、手伝える状況であれば、他人である相手に、確認をする事こそが、本当の親切では無いかという事も感じたのです。


日本人は、奥ゆかしいとも言われます。
全てを言葉にして、感情を表さずとも、それを感じ取れるみたいな所があると感じています。

因みに、雰囲気を感じる。や、空気を読むという能力は、日本人特有の能力でもあるとの事です。

言葉にせずとも感じる

と、いうような事、雰囲気など体感した事は無いでしょうか?

相手と関わる事で、常に魂は学んでいるのだと感じています。

小さな親切のつもりが、小さな親切と捉えてもらえる事ばかりではないという事を私は学んだのです。

そして、助けて欲しい、手伝って欲しいと感じているのは、相手であり、自分自身ではありませんから、相手に確認をしないと、分からないという事にもつながるのです。

私自身なら、相手に確認する事で、自分ができる範囲の事をするようにしているのです。

何気に、『善と悪のジャッジ』は常に動いている思考の中の1つなのです。自分自身を守るがごとく、常に思考を働かせているのです。

さらに、この小さな親切、大きなお世話という事柄から、私は『宙の法則』から更に学ぶ事ができ、納得する事につながったのです。


この記事に辿り着いたのも、偶然ではなく必然です。
少しでも、あなたのお役に立てたら幸いです。

一人でも多くの人が、最期まで自分らしく、幸せに過ごせますように

最後までお読み頂きありがとうございました
次回もお逢いしましょう♬


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