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みなとせ はる
2021年7月23日 17:53
俺の名前は、磯貝辰範という。磯貝家の男子には、代々「辰」の字が引き継がれてきた。大学教授の父・辰興、専業主婦の母・典子、そして二つずつ年の離れた姉と妹。それが、俺の家族だ。昭和の時代に数多く存在した核家族。男が夜遅くまで働き、女が家事と子育てをして家庭を守る。そんな風景が当たり前の家で育った。妻の京子とは、お見合い結婚だ。大学を卒業して東京のインテリア会社に入社してから、海外の取引先を
2021年7月27日 19:26
春希が5歳になる年、京子と春希を鎌倉に連れて行った。再来年に小学校受験を控えた春希に、鎌倉の寺社を見せたいと京子が言ったのだ。それを聞いた春希は、海が見たいとはしゃいでいた。俺は平日に有給休暇を一日取ると、二人を車に乗せて午前中に鎌倉に入った。鎌倉八幡宮の目の前から真っ直ぐ伸びる参道「段葛(だんかずら)」に面する和食屋で早めの昼食をとると、鶴岡八幡宮・鎌倉宮を回り、そして最後に、学問の神であ
2021年7月20日 00:38
今度は、いきなり水中に落ちた。身体がそこに落とされた途端、周りには無数の泡が生まれ、空に昇っていく。手紙の文字に自由を奪われていない私の身体は、腕と脚をばたつかせて、何とか泳ぐことができた。立ち昇る泡が小さくなっていくと、手紙を書き始めようとする先ほどの女性の姿が見えた。幸い、便箋はまだ真っ白で、文字は書かれていない。彼女は、万年筆を手にもっているものの、「うっ、うっ」とただ小さく泣い
2021年7月12日 02:06
(※今回は、暗めのお話です。ご注意ください。)彼女が、手紙を書いた主「里砂子」なのか?左手薬指に結婚指輪をしている。彼女は、私の妻なのだろうか。しかし、彼女が私の妻と仮定して、果たしてあんな手紙を書く必要があるだろうか。わざわざ呼び出さなくても、用件があれば家で話せば済むだろうに。私は彼女の顔を凝視した。篠森カイトを目にした直後、平均的な日本人である彼女の顔が印象的だとは思わない。
2021年7月15日 21:20
ハッと気が付くと、私の意識は現実世界に戻っていた。久方ぶりに息を吸った気がする。私の肺は、早鐘を打つ鼓動に合わせるように、懸命に酸素を取り込んだ。いつの間にか、Tシャツがぐっしょりと濡れるほど汗をかいて、肌に張りついている。とても疲れた──。私は行儀が悪いことなど忘れて、テーブルに肘をつき上半身を屈めた。はぁ、はぁ、と息を荒げる私を、篠森カイトは涼しい眼で見下ろしている。「篠森さん、
2021年7月8日 16:16
私が渡した白い封筒を少し眺めて「宛名はないのですね」と言うと、彼は静かに封筒を開けて、中から折りたたまれた一枚の便箋を取り出した。便箋を開くと、そこに書かれた文を読み上げる。『 明日の夜、あなたと最初に出会った場所で待っています。必ずいらしてください。いつまでも待っています。 里砂子』手紙に書かれているのは、これだけだ。便箋は、白地に月
2021年7月4日 17:38
「それは、記憶喪失ということですか。名前まで思い出せないということは、ご自身のことは何もわからないのでしょうか。いつ頃からですか?」彼は、私が記憶喪失だと知っても、さほど驚くことなく静かに尋ねた。「3か月前に、材木座の海岸で倒れていたところを三船先生に発見していただいたんです。頭を殴られていて、気づいた時には何も……。自分が誰なのか、名前さえも思い出せません。頭の検査はして、傷ももうほとん
2021年7月1日 18:53
「どなたですか?」男が目を細めて顔を傾けると、金色の長い前髪が揺れる。私は、相手が日本語を話せると分かって安心した。「三船医院の三船先生から、篠森さんを訪ねるように言われたんです。……ここは、篠森さんのお宅ですか?」私がそう尋ねると、男は溜息を吐いた。「はあ、またあの先生は……。いつも前もって連絡しろと言ってるのに。さあ、外は暑いでしょう。どうぞ入って」男は、三船医師を見知っている