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『星屑の森』-KAITO-(6)

ハッと気が付くと、私の意識は現実世界に戻っていた。
久方ぶりに息を吸った気がする。私の肺は、早鐘を打つ鼓動に合わせるように、懸命に酸素を取り込んだ。
いつの間にか、Tシャツがぐっしょりと濡れるほど汗をかいて、肌に張りついている。
とても疲れた──。
私は行儀が悪いことなど忘れて、テーブルに肘をつき上半身を屈めた。

はぁ、はぁ、と息を荒げる私を、篠森カイトは涼しい眼で見下ろしている。
「篠森さん、さっき私が見たものは、あれが、手紙に書かれた文字の記憶、というものなんですか」
私は、息を切らせながら彼に尋ねた。

「ええ。文字たちは、この手紙があなたに宛てて書かれたものだと教えてくれました。『彼ら』の方から、あなたを襲ったことがその証拠です。恐らく、あの女性はあなたの奥さまで、深い恨みを持っていたんでしょう。普通は、あんなことにはならないのですよ。文字に縛り付けられるという経験は、いかがでしたか?」

「そんなの、気持ち良いわけがない! こっちは窒息して死にそうだったんだ!」
そう言い返したかったが、大きく息を吸いこんだ途端に、むせて咳き込んでしまった。

ぬるくなった麦茶を喉に流し込むと、私は深呼吸をしてから、彼に向き直った。
「篠森さん、お願いします。もう一度、手紙の世界を見せてください。どうやら、手紙を書いた女性は、私にとって大事な人だったようなのです。彼女の悲しい顔を見ると、胸が痛むのです。その原因が私にあるならば、私はそれが何なのかを知らなければならないと思います」
──たとえ、自分の醜さを知ってしまうとしても。

私は、三船医師に拾われてここで暮らし始めてから、自分が穏やかで他人にとって害のない、(記憶がないということを除けば)常識的な人間だと思っていた。
きっと、以前の私もそうに違いないと。

しかし、先ほどの自分はどうだ。
手紙を書いていた女性を、「どこにでもいそうな、善良な市民、質素倹約で貞淑な妻といった印象」などと偏った見方をして、手紙の世界に一人置き去りにした彼の名を、憎い思いで呼んでいた。もし、文字に捕まらなかったら、彼のことを謗(そし)り、口汚く罵(ののし)っていたかもしれない。

私の中には、黒く醜い部分が眠っている。
そもそも、誰かに頭を殴られるほどの恨みを買っているのだ。もしかしたら、本当の私は、とんでもないろくでなしかもしれない。
「自分を取り戻す」というのは、そういうことを含めて受け入れるということなのだ。
自分を美化し、綺麗なことだけ、楽しいことだけを都合よく集めて、新しい自分になることではない。

それでも、私は思い出さなくては。
私の何が、彼女の悲しみや怒りを生み出したのか。
それを知らねば、私が妻である彼女の元に帰れたとしても、彼女の心が晴れることはないだろう。

「あかいしさん、あの女性が見えた時、彼女の後に鏡台があったのは分かりましたか?」
私の心の内を知ってか知らずか、彼は私の願いに答える代わりに質問をした。

「鏡台……ですか。いえ、周りに何があるかなんて、確認している余裕はなくて」
「鏡台の上に、あなたの名前が書かれた書類があります。向こうに行ったら、文字たちに捕まる前に、その書類を探して触れてください」
「え? じゃあ、また見せていただけるんですか」
「自分の名前を取り戻すことが、記憶を取り戻すことの近道です。くれぐれも、『彼ら』に捕まらないでくださいね。今度こそ、取り殺されるかもしれないので。では、いってらっしゃい」

彼が柔らかく天使のように微笑んで、手紙と私に同時に触れると、私の意識は再び白い世界に落ちていった。
ああ、今度こそ死ぬのかもしれないのか。
私が悪人だったならば、ここは地獄なのかもしれないな。もしかしたら、悪魔も天使のように美しい顔をしているのかもしれない。

(つづく)

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