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『星屑の森』-KAITO-(8)

俺の名前は、磯貝辰範という。
磯貝家の男子には、代々「辰」の字が引き継がれてきた。
大学教授の父・辰興、専業主婦の母・典子、そして二つずつ年の離れた姉と妹。それが、俺の家族だ。
昭和の時代に数多く存在した核家族。男が夜遅くまで働き、女が家事と子育てをして家庭を守る。そんな風景が当たり前の家で育った。

妻の京子とは、お見合い結婚だ。
大学を卒業して東京のインテリア会社に入社してから、海外の取引先を飛び回り仕事に没頭していたが、30歳の時、突然名古屋の両親に呼び戻された。
「そろそろ結婚をせよ」と。
京子は、大人しく控え目で育ちが良く、料理上手。両親が文句なく納得する女性であった。そして、何よりも彼女の実家には財力があった。
彼女の外見が特段好みというわけではなかったが、俺も「そろそろ結婚をするのが当たり前」と、彼女との結婚を受け入れた。

世の中では、ベルリンの壁が崩壊した後、再び統一されたドイツに人々が注目し、働く男女のラブストーリーが描かれるテレビドラマに誰もが一喜一憂する。そんな時代だった。
今までとは変わりつつある世の中の風潮。生き方。価値観。
そんなものを横目に見ながらも、俺にとって大事なものは、世間体であった。

金、仕事、家庭。
この三つが揃い、「人生すごろく」からはみ出さなければ、誰からも文句を言われない。
寡黙で厳粛な父から認められる。
そのために、県立大に入学するための受験勉強を、死ぬ思いでしていたのだ。
楽に息をするためには、その未来を手にするためには、今が苦しくとも越えなければと。
それが、「人生すごろく」の成功者の辿る道であって、幸せなのだと信じた。

見合いから3か月後、京子と結婚した。
結婚までの間、東京に住む俺と名古屋に住む京子は、数えるほどデートをしただけだった。
彼女が俺に対して、どのような感情を持っていたのかは分からない。
ただ、京子はいつも俺に対する控え目な笑みを絶やさなかった。
そんな彼女を見て、私も彼女を守らなければと思ったのだった。

結婚後、京子は当たり前のように東京にやって来て、私の身の回りの世話をし始めた。
俺は、彼女が来る前と変わらず、夜遅くまで働き、月に一、二度は海外出張のため家を空けた。
「私のことを、どう思ってるの?」などと、ドラマの中のような台詞を、結婚生活の中で彼女が吐くことはなかった。
ただ一つ、彼女が言葉にした願いは、「結婚記念日だけは、一緒に宝石店に行って、結婚指輪を磨いてください」ということだけだった。

結婚から三年目、息子の春希が生まれた。
念願の男児が生まれた時、父は、「辰」の字を付けることを期待したが、京子側の両親の強い要望もあって、「春希」という名となった。
名前が決まるまでの間、両家の間で「どちらの名が相応しいか」という論理戦が繰り出されていたが、京子はただ静かに赤ん坊の側にいて、穏やかに言葉をかけていた。
大人達の醜い喧騒を、赤ん坊の耳に入れたくなかったのかもしれない。
俺は、しつこく「辰」という字を入れろという父に反論することができなかったが、じっと嵐を耐える京子と生まれたばかりの子どもを守るため、文句を全て一人で受け止めていた。
この頃、俺はやっと、京子と赤ん坊に対して、自分の「家族」の愛おしさを感じ始めたのだと思う。

俺と京子の間に恋愛感情があったことは、この10年間、きっとない。
しかし、家族として、この世で守るべき唯一のものとして、大切であることは違いなかった。

俺が汗水垂らして懸命働き、家族を食うに困らせず、生活に不自由をさせない。
それが、家族の、京子の幸せでもあると思っていた。

しかし、いつからだろう。
京子から、出会った時の控え目な笑みが、赤ん坊を抱いていた時の柔和な笑みが、失われていったのは──。

(つづく)

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