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『星屑の森』-KAITO-(3)

「それは、記憶喪失ということですか。名前まで思い出せないということは、ご自身のことは何もわからないのでしょうか。いつ頃からですか?」

彼は、私が記憶喪失だと知っても、さほど驚くことなく静かに尋ねた。

「3か月前に、材木座の海岸で倒れていたところを三船先生に発見していただいたんです。頭を殴られていて、気づいた時には何も……。自分が誰なのか、名前さえも思い出せません。頭の検査はして、傷ももうほとんど治っているのですが、どうしても記憶だけが戻らないんです」

「失礼ですが、誰かに頭を殴られたというのは、穏やかではありませんよね。誰かが悪意をもって、あなたを殺そうとした可能性もある。それでも、あなたは記憶を取り戻したいのですか?」

「ええ。何度も考えました。もし恐ろしい事実があるならば、このままの方がいいんじゃないかって。でも、自分が何者か分からないということに、私は耐えられないのです。私は確かにここいるのに、『からっぽ』な気がするのです。何を見ても聞いても、砂を掴んでいるような気がしてしまう。私は、自分が何者なのか、実感したいんです。三船先生は、凶器の石が血で真っ赤に染まって男が道端に倒れていたから、『あかいし みちお』なんて名前をつけて。この名前も気に入っていないんです。それに……、もし私に家族がいるなら、私は帰りたい」

私は話しながら、思わず両手のこぶしを強く握っていた。
誰かに殺されかけたなら、思い出さない方が自分の命のためだ。そう思ったこともある。
しかし、鎌倉の海を毎日眺め、繰り返す波の音を聴いていると、命の起源を考えさせられた。
「お前は、何者なのだ」と。
私は、思い出せないどこかに帰りたくて、仕方がなかった。

「僕の元を訪ねてきたということは、三船先生から何か聞いていますか?」
「……はい。これを渡すように言われました」
私は、三船医師から借りてきたハンドバッグの中から、手紙を取り出して彼に渡した。

「私が発見されたとき、唯一持っていたものです。あなたに渡せば、私のことが分かるかもしれない。そう言われて来ました」
しわくちゃで、よれよれで、お世辞にも綺麗といえる状態ではない封筒に入った手紙。
これでも、細心の注意を払って丁寧に汚れをふき取り、アイロンでしわを伸ばした。

「本当に、こんなものから私のことが分かるのですか? その……、ものから記憶を読み取ることなんて可能なのでしょうか。あの、私、本当にこの手紙以外に何ももっていなくて、お金もお支払いできないのですが……」

そう。三船医師にこの話を聞いた時から、胡散臭い話だった。よく分からない占いや宗教の勧誘ではないかと思った。
それでも、藁にすがる思いでここにやってきたのは、今のままでは埒(らち)が明かないことを痛感していたからだ。
しかし、実際に彼を目の前にすると、もしかしたら奇跡を起こしてくれるのではないかという期待が湧いてくる。
彼の瞳の奥は海のように深く、何でも知っているのではないかとさえ思えてくるから不思議だった。

「お金は必要ありませんよ。商売でやっているわけではありませんから」
彼はふわりと優しく微笑み、言葉を続けた。

「大切なのは、あなたが本当に知る覚悟があるかどうかです。あなたが受けるショックについて、僕は責任が持てません。それに、僕ができることは、『文字の記憶』を読み取ること。あなた自身の記憶を直接どうこうできるわけではありません。この手紙を書いた主の情報から、あなたのことが何か分かるかもしれない。そういったお手伝いができるだけです。それでも良いですか?」
そう言うと、彼の瞳は透明度を増して冷たく光った気がした。

「……はい。どうかよろしくお願いします」
私は、膝に両手をつき、深々と頭を下げてお願いした。
何を知ろうとも、私は受け止める。そう覚悟を決めた。

(つづく)

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