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「個性を伸ばす」教育は良いものなのか? その1

以前、こんなnoteを書いた。
このnoteの元になっている授業も、今日のnoteの元になっている授業も、科目は違えど同じ先生に教わっている。


いくつか問うべきことがある。

1 人間が「個性」を持つことは学校教育では良いことだとされているが、個性を育てる教育が真の教育なのか??
2 「個性」ってそもそもなんだっけ?
3 「社会的に見て望ましい個性」以外は個性と認められないのか?

2について、「個性」とは何なのだろう。「他の人とは違っていること」だ。ただもちろん個性には良いものも悪いものもあるだろう。学校教育では「すべての個性を無条件に」伸ばそうと考えられているのだろうか?
そうではないように思える。大人にとって都合の良い、社会に出るために必要な、まっとうな人間として持っていたら良いなぁと思える個性しか、伸ばそうとしてくれないのでは?
「どんな個性を持った人間」も等しく、その「個性」を認めてもらえているのだろうか?甚だ疑問である。



「凡庸である」ことはダメなことなのか?

・近代以前は凡庸であると認めること=何らかの身分や階級の一員として自らの存在を位置づけること、だった。
・近代では人間の社会的属性が曖昧になり、「一般大衆」という人間様態が大量に出現。
・人々は絶えず自分自身に対して「個性的」であるように強迫しているのかもしれない。

「人と同じであろうとする」本能的な傾向と
「人とは違った存在であろうとする」強迫的な傾向とがある
のではないか?
→事実「学校」という場所でも「個性を伸長する」教育をしつつ、「他者と同じ」であることを求めている。(例えば制服)
→「人並み」であることを求める人もいるのでは?
→異質なものは排除される(例えばいじめ)ということもあるのではないか
→「個性」の内容によってはそれを伸ばせる環境が「学校」の中にあるかもしれないが、内容によっては周囲の人から妬みや恨みを買うのかもしれない

・他人とずれていたり、他人より遅れていたりすることに不安を抱いている人がいるのではないか。
→一方で、「個性がない」ことを不安に思い、自分自身に価値を見出せなくなっている人がいるのではないか。


「凡庸さ」を基盤に少数の「個性」は成り立っている?

「個性的である」とは凡庸さの中にあって、ひときわ目立つということ。
→それを人間として価値がある、価値が大きいことであると認めたり、誰もが実現すべき目標だと考えたりするならその指向性自体は「凡庸であることの否定」なのではないか。

この辺は最初に紹介した以前のnoteでも書いたことなのだが、「個性的でなければいけないのか?」というのは難題である。正直どんなに学校教育で「個性を伸ばす」ことが重視されなかったとしても、就職活動では「個性的であること、他の大勢の他者とは違った何かを持っていること」が求められている気がする。「自分の中に『他の人とは異なる良さ』」のようなものを見出さなければならない。
「学校を卒業して、社会に出ていき、働く」。そのために、「何者かでなければならないこと」が求められている気がする。



授業内で紹介されていた土井隆義さんの『<非行少年>の消滅』信山社 2003年
の151ページの文章が印象に残っている。

「個性的な自分」でありたいと切に願う若者たちの行動は、じつに没個性的である。考えてみれば、「個性的な自分」でありたいと皆が等しく願っているとすれば、その願い自体はけっして個性的なものではありえない。「個性的な自分」を追求してふるまう若者たちの行動の中身もまた、たがいに似たり寄ったりの画一的なものである。

この考えに基づいて考えるなら、私もまた「個性的な自分」でありたいという没個性的な行動をする人間の1人なのだろう。

「個性的でなければならない」とかきたてられる環境はどうしてつくられたのだろう?具体的に何がどう強迫してくるのだろう?


「個性的でなければならない」という考えは、学校生活の中で生まれたのだろうか。

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