誰かの人生の脇役になること
自分の人生は自分の好きなように生きたいし、与えられたステージで自分なりに頑張りたい。好きなことに熱中したいし、自分のことをわかってくれる友達だって欲しい。
あわよくば、ステージを見て盛大な拍手をしてくれる、そんな人がいる人生を送れたら素敵だ。
自分の人生の主役は自分に決まっている。とってもありきたりな言葉だ。主役は好きなようにステージの上で踊れるし歌えるし、好きなように感情を表現できる。
人生もそういう風に自由であると良いな。
もちろん責任が伴うとわかった上で。
自分の人生の主役でありたい。自分の人生、なんだかんだ良かったなぁと死ぬ間際に思いたい。
誰かに拍手を送ってもらえるようなステージにいられなかったとしても
自分の人生に自分で拍手を送りたい。
自分で自分に拍手を送れるくらいの価値はある人生を送りたい。
私たちは自分の人生というステージの主役になれるし、
誰かの人生という別のステージの脇役にもなれる。
家族だって恋人だって友達だって先生だって脇役だ。
自分の人生の脇役だ。
わたしも誰かの人生の脇役だ。
今日も誰かの人生にほんの少しだけ影響を及ぼしているのかもしれない。
どうせ誰かの人生の脇役になるなら、良い意味でその人の人生に残りたい。
誰かの人生の、かけがえのない人になってみたい。
わたしの人生の脇役たちは、当然良い人ばかりではない。
あなたさえステージに登場してこなければ、わたしの人生はこんな風になってならなかったのに、と思う人さえいる。
それでも選択を重ねて偶然にというよりはある意味必然に、
わたしの人生という名のステージに登るための階段に脇役たちは辿り着いたのだ。
悪役だった脇役でも、わたしの人生の糧になっているかもしれない。
わたしも誰かの人生の脇役になりたい。
主役の記憶に残る、脇役になりたい。
これがわたしが教師になりたい理由の1つであるのかもしれない。
最後に1つ、言いたいことがある。
世の中には自分の人生という名のステージを、自らの選択によって降りていく人がいる。
自分が立ったステージだ。自分から去ることが悪いことだとは思わない。
わたしは絶対に、「自分で自分のステージの幕を閉じる」、という選択をした人を責めたいとは思わない。
自ら閉幕を宣言した人を、黙って見送りたい。人混みに紛れたほんの小さな脇役として。
自分の人生だから、好きにつかえば良いさ。
生きたくても生きられない人に、生きたくなくても生きなければならない人のステージを、プレゼントできたら良いのにね。
今日から主役は交代ですよ、って。