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誰もが経験を元にして簡単に語れてしまうからこそ、「教育」は恐ろしい

今日はとあるオンラインイベントで『教育に科学的根拠を』という講演を聞いた。
たった50分の講演だけれど、その中で教育というものがとことん数値的な根拠で語られていることに驚いた。そして、その数値的な根拠を示すための実験が海外では既にかなり行われているということも。

だから日本の教育は遅れてる、とか世界大学ランキングの上位に入れない、とか言われるのだろうか。


教育というものは人の「経験」で語られがちだ。なぜなら誰もが学校(もしくはそれと似たような場所)で勉強を教わってきているわけだし、教育を受ける立場に他ならないからだ。自分の過去の経験だけで、「もっとこうしたら良いんじゃないか」ということを簡単に語れてしまう。

だからこそ「教育」には怖さがある。
実際講演の中でも
「個人個人の体験談は必ずしも全体を表さない」こと、そして「例外的な出来事ほど注目される」ことが語られていた。
後者の代表例として、子供を3人とも東大に合格させた母親の話を書いた本がベストセラーになった、ということが挙げられる。

だからこそ科学的根拠を用いて教育は語られなければならない、個人の体験を大量に集め、観察することによって得られる規則性に基づいて語られなければならない.....
その重要性に気づけた。
なかなか実際に意識するのは難しいのだけれど。。。

日本ではデータを集め、分析するのが制度や個人情報保護の観点から(海外より)難しいようだしね。




インパクトが強かった話として、「通っていた学歴(偏差値)が高くなればなるほど、将来の収入が上がるわけではない」という話だった。

大学の偏差値よりも通っている学部が重要だという研究結果もあるようだ。

これはつまり、日本の労働市場において「学歴」(特に就活で企業が見ているなぁと感じる部分)は思った以上にその人の能力を正しく判断する指標となっていない、ということである。


「シグナリング理論」というものがある。

企業が労働者の能力を正確に知ることができない「情報の非対称性」の下で、企業は労働者がどの大学を卒業したかという「シグナル」で労働者の能力を測ろうとし、労働者はその「シグナル」を企業に送るために大学に進学する。
(Spence , 1978)

今の新卒採用は、大学で何を学んだのかではなく、その大学に入れるだけの能力があったのかを見ている、、、、とそう言われてみれば、確かにそんな気もする。

実際、就活する段階で研究テーマ(大学の学びの集大成)が決まっていない場合って少なくないと思うんだけれどなぁ。

まぁこれを言ってしまうと「大学って勉強するためじゃなくて就活するためにはいってない?就活の方が時間かかってない?」
ってなるわけだけれどね。


大学生のうちにしかできないことってなんだったんだろう。




話が逸れた。
今日の講演に関してはもう1つ書きたいテーマがあるが、自分の知識不足な気がするので勉強してからまた後に。

今日は授業→バイト→面接→バイト→GD→玉手箱→学校の課題でした。

終わり。