答えのある問いと答えのない問い
キングダムにどハマりしている。続編が楽しみだ。そろそろ映画を観に行きたい。ネトフリやアマプラで映画を家で見るのとは完全に違う、映画館で映画を見るという活動がしたい。
まぁいつだってそんな自分の前には課題の山があるんだけどね。
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「答え」がはっきりしているからこそ面白い数学
数学というのは厳密で、答えがはっきりしている。答えが明確にあるからこそ、その答えにたどり着けた時の喜びはひとしおだ。
答えにたどり着くまでの正しい思考過程を自分が辿れた時はなんだかうれしい。
その答えにたどり着くまでの新たな考え(解法)を思いつくことができた時もこれまたうれしい。
でも答えがはっきりしていない問いも好き
例えば国語の授業で登場人物の心情を考える問い。あまりにも的外れな答えは許されないかもしれないけど、自分で登場人物のことを想像する余地がある。
正解がない場合もある。本人の気持ちは本人にしかわからないし、何より物語に出てくる人物はほぼ架空の人物だからね。
でもだからこそ面白い。自分なりの答えを見出すための思考が面白い。
少しだけ物語に入り込めた気がして。物語のステージを1番前で観客として見て、主人公の思いを感じ取ろうとしているような気がして。
自由に自分の考えを書いていいとき
大学の課題では自分の意見を書きなさいなんていうものがよく出される。
自由に自分の意見をかける。答えに正解はない。色々な意見が存在していい。
そういう物事はこの世にたくさんあるだろう。
「自分の考えを好きなように述べる」ことは、確かに嫌いではない。
得意か得意でないかで言ったら、多分自分は得意な方だ。
でもそんな「自由に書かれた考え」はどのように評価されているのだろうか?
それって本当に「自由」に考えているの?
あなたの考えは本当に自由に書かれているのだろうか。
課題で出されるものの多くが、実は「正解」が存在する場合が多い。
この「正解」は正しいというよりは、
「先生が考えてほしかったのはこういうことなんだ」っていうものだ。
いわゆる「先生が欲しかった答え」だ。
結局先生に求められていることを書けば良いのだ。
自分で自由に考えなくても、ある程度授業資料などから自ずと正解が見出せてしまうのだ。
先生の「意図している正解」が。
結局どんなに自由な考えを書いたって、それはあくまで「先生の尺度」で評価されてしまうのだ。
先生の「価値観」に基づいて判断されてしまうのだ。
例えば「生徒指導論」の授業で、不登校の生徒にどんな対応をすべきか、というような課題が出される。
そこには確かに「正解」が存在する。誰かが話し合って決めたその人たちの価値観で正しいと考えられる「正解」が。
でも本当にそれは正しいのだろうか?その対応は正しいのだろうか?
実際に「正しい」ことを学ぶのと、それを「正しい」ことを実践しようとするときでは、何かが違う気がする。
答えがないものを評価するのって難しいよね
この前道徳教育の授業でもそういう話があった。生徒は評価に合わせて教師の喜びそうな文章を書けるし、先生に高く評価してもらえそうな反応を示せる。
これって本当に良いことなのかな?生徒としてこうあってほしい、と誰かが望む姿なのかな?
「道徳性の評価は偽善的態度を生徒の側に醸成しかねない」
なんて習ったけど、「自由な考え」もそうなのかもね。
「自由に考える」中でも、これが「求められている正しさ・正しい考え」なんだろうって、実は考えてしまっているのかもしれない。
「高く評価されるためには何をどう考えて書けば良いのか」と思っているかもしれない。
誰かの価値観によって自分の価値観が評価されるのか。
しょうがないけど、何ともいえないモヤモヤ感がある。
最後に、答えのない問いをぶつけたい。