Op.51 最愛のそばに


私は一体何のためにピアノをやってきたんだろう。

数ヶ月ぶりに、この問いの髄に強く頭を打ち付けてしまった。




新年本番初め。風邪が治らない上に耳も聴こえない、鼻も垂れてくる、どこか熱っぽくて悪寒がする。こんな最悪のコンディション、なんで今日なの。

本番十数分前から頭が痛くて、ピアノ椅子を調節してる時も意識がいつもより少し遠くて、3回も直してしまった。
今日くらいの緊張はいつもどおり。なんだけど、思うように呼吸ができない。したいときに吸えない。タイミングが合わない。加えて、胃から何か這い上がってくる気持ち悪さが喉元につっかえていた。
自分の番が終わると、一度会場から出てお手洗いに駆け込んだ。つっかえていたものも、更にその下にあったものも、ひと通り出した。何事もなかったかのように会場の客席に着いて、時間が過ぎるのを待った。

暗譜が飛ばなかったことだけ。他は何も覚えていないに等しい。
なんだか今日は、クラシックが聴こえてくるだけで心が騒つく。


あと3ヶ月もしないうちに、ピアノとは距離ができてしまう。もちろん、一生弾くよ。一生一緒にいるよ。何があっても、ずっと。
でもね、もう今までほどそばにはいられないの。いたくても、いられないの。

「ピアノのそばにいたくない」って軽い気持ちで思ったことはある。体育の授業や友達との遊び、他の習い事や部活……あらゆることを犠牲にして、辛い想いを何度もした。逆に言えば、ピアノのためなら何でもしてきた。
それでも、本音はいつでも、「いつまでもここにいさせて」。




※そこそこの長文になってしまったし、人に話すのを避けてきた過去もあえて明言していたりするけれど、振り返るためには必要だと感じたので記しておきます。




物心ついた頃にはもう、自分の背と同じくらいの脚を持ったグランドピアノが私の中に棲みついていた。寝て遊んで食べて寝て、を繰り返している私が布団を敷いて寝ていた絨毯の部屋にどーーーんと構えている、下に入ると木の香りがして、外はつやつやで、黒いの。
タンスの横を通って窓側に行くと、真っ黒なピアノが大きな口を開けて白と黒の歯を見せていた。毎日、窓からの陽が蓋に映る白鍵の色をより艶やかにしていた。後から聞いた話だが、母はいつでも私が触れるように、わざと毎日蓋を開けていたらしい。

買ってもらった人形の足を支えて鍵盤の上を歩かせて遊んだ。従兄が遊びに来た時にそれを披露したら「むちゃくちゃだ」って笑われた。そりゃあ、隣り合った音を同時に踏みつけたらむちゃくちゃな音しか鳴らないよね。

母はときどき、私を膝に乗せたままピアノを弾いてくれた。大学からピアノとともに上京し、生業にはしなかったものの、私が興味を持つと楽しそうに弾いてくれた母は、「4歳になったら習いに行こうね」と約束してくれた。


4歳を迎えてから4か月ほど経った日に、私は母に連れられて“ピアノの先生”のご自宅に伺った。その日初めて顔を合わせた“ピアノの先生”と何をやったのかは覚えていない。
いつも先生のお話を聞くだけで満足して、おんぷカードやバイエルは毎回「やりたくない」とはぐらかした。おかげで音符がなかなか読めなくて、しばらくは母が楽譜にふってくれたドレミをヒントに、前に見たことのある音符の配置と手のフォームや位置の記憶を頭の中で照らし合わせて弾いていた。


3年保育のカトリックの幼稚園を抜けて、2年保育の幼稚園を受験した。3歳の秋頃、初めに通っていた幼稚園のある一室で、両親の間に置かれた子供用椅子に座って面談をした覚えがある。今にも雨が降りそうな、雲の厚い日だった。あれはきっと、“退園”の話だったんだな。
幼稚園受験は、4つ中2つ受かった。幼児教室の先生から「のびのびできるから、合うと思いますよ」と言われた(らしい)ほうに通うようになった。最悪、私がどうしようもなく頭が悪くても大学まで上がれる保証付きであることも選んだ理由のひとつらしい。酷いな。有り難いけど。


新しい幼稚園では、毎朝先生と話せるチャンスがあった。
あれは年中さんの頃だったと思う。先生に「バッハのメヌエットを弾くことになった」と報告したら、先生は「ええ!すごいわね!」と褒めてくれた。あれが初めて、ピアノをやっていて感じた優越かもしれない。
他には、鼻に沿って手をまっすぐ当てながら「今日の電車はものすごく混んでて、女の人がこうやって挟まれてて、痛そうだった」とか、「おとうさんがクロワッサンをお箸で食べてた」って報告したりした。後者は後で母に軽く叱られた。先生は笑ってくれたんだけどな。

七夕には、女の子がピアノを弾く絵を描いた短冊に「ピアノの先生になりたい」と書いた。この頃からすでに、私の生活の中心にはピアノがあった。




小学2年生になる直前の3月に、今住んでいる家に引っ越してきた。しばらくは前の先生にピアノを習いに行っていたが、2年生の秋から先生を変えることになった。
母は調律師さん伝いに2人の先生を紹介してもらったらしく、“辞めさせる目処を付けるために”「ちょっとこっちの先生は……ちっちゃいお子さんにもはっきりおっしゃるので……恐いかも……」と言われた先生を選んだ。はっきり、「向いてません」という言葉が欲しかったらしい。

そんなこと知る由もない私は、シールがペタペタ貼ってある下手くそなツェルニーを披露しに母とその先生のご自宅を訪ねた。私の演奏を聴いた先生は開口一番「上手ね」と私の目を見て口角を上げた。続けて、後ろで聴いていた母のほうへ振り返り、「向いています」と一言放った。母の声は驚きのあまり笑っていた。
その後、先生から「上手」と言われたことは一度たりともない。




「ピアノは好きだけど、練習は嫌」という感覚が芽生えたのもこの頃だった。練習したくなくて、どうしてもピアノの椅子に座りたくなかった私は、家のあちこちに逃げ隠れて、何としても弾かずにいたいと思っていた。「弾きたいタイミングで弾くから、待っててよ」。
毎日、母に追いかけられていた。あまりにいうことを聞かない私に辟易した母は、たいてい自室で寝ている父に助けを求めた。父は容赦なく私を殴ったり叩いたり、蹴ったり引きずったりした。父からの暴力は4歳頃から日常的にあったが、“練習をしない私”へ向けられたものは他とは比でなかった。ほぼ毎回、ベランダか玄関先のポーチに裸足のまま数時間締め出された。その間に部屋の本棚や机の引き出しを荒らされたり、大事なものを捨てられたりした。玄関のドアの段差に足の爪が引っかかって血まみれになったこともあったし、引きずられた時に背骨に沿って皮膚が剥けたこともあった。締め出す代わりにビニール紐で脚を縛られて擦れたこともあるし、単純に手を踏んづけられたこともあった。

あの頃から「言うことを聞かない私がいけない」という自責の気持ちより、「ここまでするなんて酷い、憎い」という父に対しての嫌悪や憎悪が優っていた。運良く自室に逃げ込めても部屋には鍵がついていないから、自分がタンスやベッドからドアまでの衝立になって、寝そべったりした。ドアの向こうから足音が迫ってきたり、怒鳴られる度に大粒の涙が溢れた。おかげで部屋着はしばらく乾かなかったし、ドアを開けようとする振動が直接頭に響いて痛かった。

こんな時間を過ごしている間はいつも、「私はこの世で何番目に不幸な子供か」「友達のお父さんも怒ったらこんななのか」「私が警察や児童相談所に電話したらどうなるだろうか」なんてことを巡らせていた。
「日本でいちばんは言い過ぎだし、東京都でももっと辛い思いをしてる子はいるだろうし、区で不幸せな子ランキングトップ50には入るかな」って予想を何度も立てた。「私が相談所に電話したら父が逮捕されるかもしれない。逮捕されたら平和になるかも。でも、父がいなくなったらお金はどうするの。稼ぎ手がいなくなったら、私、学校に行けなくなる。だめだ」って連想ゲームも何度もした。

今思い返すと、よくもまあ、精神疾患をも抱えずにここまで生きてきたと思う(私自身、勝手にアダルトチルドレンなんだろうとは思っているが)。その分、父がどんなににこやかにしてようと生理的に拒絶してしまうし、たとえどんなことがあろうと一生許さない。


こうやってぼろぼろにされて涙も出し切ってしばらくしてから、ようやくピアノに向かうのが当たり前になっていた。疲れ果てた私は、いつしかピアノに縋るようになった。どんな想いをしようと、ピアノを弾いている時だけはすべてを忘れられるし、傷もほんの少しずつ癒えてゆくから。
「ピアノを辞めればこんな目に合わなくて済むんじゃないか」なんて瞬間的に過った自身への投げかけは、「ピアノがいない人生を私はもう生きれない」という応えに瞬時に通じた。




3年生の冬、先生宅でレッスン待ちをしていた時に、ドア越しに聴こえてきた当時受験を控えていた中学3年生の先輩の演奏が耳を通り越して心に入ってきたことがあった。あの時から、私は音高受験をしたいと強く望むようになった。こんな演奏がしたい、人の心を揺すりたい、と。

それからしばらく経った4年生の秋口のこと。先生はレッスンについてきていた母に「受験をするならそろそろソルフェージュもやらないと」と諭した。“音高受験生”のスタートを切った瞬間だった。
6年生になる4月に音楽教室へ入室することを前提に、5年生の秋から入室準備クラスに入った。そのクラスに入るための試験で弾いたベートーヴェンが、ピアノを習い始めてから初めての、素知らぬ人たちの前で弾く機会だった。あの頃は、暗譜が飛ぶ不安も、失敗への恐怖もまだ知らなかった。


5年生の2月に入室試験を受け、晴れて4月から音教生になることができた。ここに入れば、高校受験もほぼ安泰だった。初めての合唱の楽しさと、音楽に塗れた環境で話のできる学校以外での友達ができた嬉しさで溢れていた。学校よりも、週に一度の音楽教室が楽しみで仕方なかった。

毎年一回ずつある年次試験は嫌だったけど、今ほど心配性ではなかったし、試験以外の場でも素で弾けていたと思う。中学1年で弾いたメンデルスゾーンのソナタは、好きで好きで仕方なくて練習までも楽しかった記憶がある。
あと、中学3年の室内楽クラスのメンバーにもしてもらえた。中学3年の一年間はピアノもソルフェージュもこれまででいちばん頑張っていたし、いちばん一生懸命だった。落ちたら行く場所がないという一種の必然的意識もあったけど、みんなと高校生活を送りたい気持ちが何より強かった。




たった一枚の内申書の提出先を母校にする夢はついに叶った。9歳の秋から憧れ続けた夢を実現できたわけだ。高校からはピアノの先生が変わったけれど、門下ごと引き継いでいただいたからメンバーはほぼ変わらず。仲良いに決まってるよね。しかも、あの入室準備クラスの時からこれまでの試験をずっと聴かれていた先生に教わるなんて思ってもなかった。最高の高校生活、のはずだった。現に、初めの1年間はとにかく今この瞬間が楽しくて仕方なかった。


でも、いろんな場面でいろんな人のいろんな演奏を聴いて、いろんな面のいろんな話を聞いて。この世界は年齢関係なくすごい人ばかりなこと、練習したからって評価されるわけではないこと、どんなに頑張っても何も起きないしどうにもならない現実もあること、身構えていた以上にアンフェアなこと。足を踏み入れないと知れないけど、知りたくなかったことまで知った。
誰の演奏が下手だとか、嫉妬や僻みで普段の仲まで悪くなったとか、なぜそこを比べるのか分からない話題が飛び交った。たった一回の演奏でそこまで言われるなんて。聞きたくなかった。誰かと争うものではなく、誰かと調和するためのものだと思って音楽と向き合ってきた私は迷宮入りしてしまった。「上手くなりたい」が「上手くならなきゃ」になった理由の、「上手くないと馬鹿にされるから」の部分が徐々に濃くなっていった。

「ミスしたら」ばかりを考えるようになってしまったら、自由も何もない。元も子もない。
せっかく室内楽をたくさん経験してたくさん学びを得たつもりだったのに、行動範囲が決められてしまって身動きが取れないから素材も活かせない。
完璧主義な母に何事も“出来る子”として見られなければならない強迫観念が昔からつきまとっていた私にとって、それは二重苦だった。




こうして徐々に不特定多数の人前で弾くことに別の恐怖を感じるようになった私は、今日、運悪くも体調不良で記憶が定かでないという、ある意味好都合な本番を終えてしまった。




結局私は、自身が愛でてきた音楽を解放する手法で、自分や身近な人を充たせることを“音楽の魅力”として捉えている。このことに間違いはない。


しかし、この結論はいつから根付いていたのだろう。
「ピアノの先生になりたい」と短冊に書いた時も、「サントリーホールで凱旋リサイタルをした」と25歳の自分になりきって認めた小学生の頃も、たぶん、今とは別の根源を持っていたと思う。


「親に期待されていたから」
「前の学校を早く抜け出したかったから」
「弾くのが好きだから」
「音楽をやっている自分が好きだから」。
どれも正解。

でもね、いちばんは
「音楽という場を失いたくなかったから」
なんだと思う。

ご覧のとおり過去にとらわれてばかりで、「こうなりたいから」ではなかったんだ。
「みんなにすごいって言われたい」とかじゃなくて、「アーティストとしてこういうことがしたい」ってものが来なきゃおかしかったんだ。

今でも以前と変わらず、勉強も研究も永遠にしていたいくらい貪欲だ。けれど、人前にひとりで立ちたくない自分がいる。こわい。助けて。自由になりたい。
私は“自分”として演奏したい。私と私の好きな人たちの心が、私の音楽によって充たされるだけでいい。


そう、そういうこと。
これは“間違えてしまった”のか。
それとも、“こうであるべき”なのか。
どうして今まで気づかなかったのか。
どうして今まで考えてこなかったのか。


きちんと答えを出すには、もう少し時間が要るみたいだ。




最後に、こんなに五里霧中でもこれだけは絶対に変わらないと言えること。

私にとってピアノや音楽は私を構成する大部分であり、物心ついた頃から私の人生の軸であり、私が最も夢中になれる存在であり、私が最も愛する者であるから、彼らが消えてしまったら私は間違いなく死んでしまう。

だから、どうか、一生そばにいさせて。




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