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ファッションデザインコンテストのお話

デザイナーの登竜門

今は定かではないが、私が文化服装学院に在学していた1990年代は、ファッションデザインコンテストが盛んに行われていた。歴史が古く、コシノジュンコ氏、高田賢三氏、山本寛斎氏、山本耀司氏など、多くの著名デザイナーを輩出している『装苑賞』をはじめ、東京、横浜、大阪、神戸、名古屋など、各地のファッション関連企業・団体なども新人デザイナー発掘の場としてコンテストを開催していた。

コンテストでは、まず、デザイン画の公募から始まる。応募資格は、主に学生や、デザイナーを職業としていない社会人など。外国からの応募も認めているものが多かった。

作品のテーマや素材が、最初から決められている場合もあるし、全く自由なコンテストもある。第一次審査は、集められたデザイン画の中から、最終審査に進む作品が選ばれ、選ばれたものは、期日までにその作品を制作し、そして、ショー形式の最終公開審査会で、グランプリやその他の受賞者が選ばれるというのが定番だった。

審査員は有名デザイナーやスタイリスト、ファッションジャーナリストなど。当時は、上記の装苑賞を受賞された先生方に加え、花井幸子氏、中野裕通氏、小西良幸(ドン小西)氏、原由美子氏、そして大内順子氏などがよく審査員をされていた。

グランプリ受賞者や入賞者には、賞金や賞品の他に、海外のファッション学校に1年間留学する権利を与えられたりもして、デザイナーを志す者たちには、夢を叶えるためのチャンスの場であった。


みんながライバル

デザイナーを目指す学生たちは、こぞってコンテストに応募した。学校の先生方もそれを推奨し、授業のプログラムにもコンテスト画を描く時間があったりもした。一次審査に残った学生の作品製作は、パターンや縫製が得意なクラスメートや友人たちも夜遅くまで手伝い、みんなで一丸となって最終公開審査に臨んでいた。

私はといえば、学費を稼ぐためにバイト漬けの日々。そして節約のために、学校のある新宿と実家の宇都宮を毎日往復していたので、もうコンテストどころではなく、クラスメート達が次々と受賞する中、私は学校にとにかく通うのが精一杯だった。

悔しかった。


コンテスト荒らし

だから、仙台の専門学校に就職が決まった時、学生時代には出来なかった、コンテストに応募しようと決めた。

先生になってしまった私と、それでもデザイナーを志す私の希望の架け橋。

仕事をしながらの応募はなかなか簡単なことではなかったが、学生の時よりは、多少時間の余裕があったので、一生懸命応募した。

デザイン画が最終審査に残れば、夜間と週末に学校の教室をお借りして、ひとりで黙々と製作活動をした。学生時代の掛け持ちバイトと長距離通学のしんどさに比べたら、製作時間の長さなど苦にならなかった。

おかげで、仙台に住んでいた5年間の間に、毎年2回、計10回コンテストの最終公開審査に残り、おかげさまで入賞も結構したりした。

あるコンテストでは日本代表のひとりに選ばれ、国際審査会のために、生まれて初めてパリにも行くことができた。パリ留学を考えている時に、パリの雰囲気を実際に確かめることができ、本当に良かった。

そして、公開審査会はあのルーブル美術館の地下の会場で、ショー形式で行われ、入賞こそ逃したが、友人も日本からわざわざ応援に駆けつけてくれて、本当に素晴らしい思い出が出来た。

決して諦めなければ、いつかチャンスは巡ってくる… そう信じている。





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