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[1分小説] 哀|#言えなかった『ごめんなさい』

秋が来た。
貴恵きえと別れて、今年でちょうど5年になる。

人はなぜ、一番楽しかった時間のままで生きられないのだろう。

滅多に笑わなかった彼女がはじめて笑顔を見せた時の表情が、今もまぶたの裏で焦点を結ぶ。

大学3年次のことだった。
2回振られて、3回目の告白で、ようやく貴恵は俺と付き合うことを認めた。

人に頼ることが苦手な彼女を、誰よりもそばで見て、支えたかった。
いや、そんな理由はきっと後付けで、言葉では形容できない何かに惹かれていたのかもしれない。


「言葉で言い表せるものなんて、たかが知れているわ」

そう言ったのは、交際をはじめてすぐの頃、
まだ俺のことを「まことくん」と"くん付" で呼んでいた貴恵だった。

初めてベッドを共にした日、彼女はこんなふうに人を愛するのかと、俺は感嘆した。

情事の後、ベッドで小さく眠る彼女を見て、
不安に駆られずにはいられなかった。

こんなに愛おしいものを手に入れてしまったら、
いったいどうして失うことへの恐怖を思わずにいられよう―。


目を覚ました貴恵に、俺は率直に不安をぶちまけた。

「君がいなくなるのが怖い」

まだ火照りの引かない、でも陶器のような白い肌を凛と露わにしながら、貴恵は嫌みなく「ふふっ」と鼻で笑った。


ひと息置いて、彼女はシーツにくるまりながら、
言った。

「愛は所有と支配ではなく、尊敬と受容なの」

まぁ、これは借り物の言葉だけど。
そう言い足して、彼女の口の端が笑った。 

天使みたいに見えた。

愛おしいと思えば、ストレートに「好きだ」と言い、焦燥に駆られれば、不安を口にした。

振り返れば、そんな俺の一句一言が、
少しづつ彼女を追い詰めていたんだと思う。


まだ20歳を過ぎて数年の俺には、
自分の心をうまく覗くことも制御することもできなかった。

貴恵は優しかった。
喜怒哀楽を顔に出さない割には、八方美人なところがあって、それが彼女自身を苦しめていた。

そんな貴恵の姿を見て、俺は、

「誰にでも優しいということは、
誰にでも優しくないことと同じなんじゃないの」

そう言ったことがある。

わずかに表情を歪めた彼女は、あの時何を思ったのだろう。


大学を卒業して、お互いに社会人になった時、

「好きなら、俺のマンションに毎週来るだろ」

俺はそんな類の発言をした。あるいは失言・・と言うのかもしれない。

俺の頼みを、彼女は無理やり飲んだのだろう。
そこから別れるまでは、互いに仕事の忙しさもあってか、すごく速かった。

貴恵と会った最後の日、
彼女は夕方に俺の住む千葉の僻地のマンションまでやってきた。

別れ話を切り出された俺は、
部屋の灯りも付けないまま、ただ自分の顔に失望が広がっていくのを感じていた。

貴恵が出ていく瞬間は、直視できなかったのだろうか?覚えていない。

彼女の頬に西陽があたっていたことだけが、
曖昧な残像として脳裏に焼き付いている。


会いたくないと言ったら、今はまだ嘘になるけれど。

でも、もしも、また彼女と会えるなら―。

彼女を追い詰め、傷つけたかもしれないひとつひとつに、
「ごめんなさい」を言いたいと、俺は今もひそかに思い続けている。



≪[1分小説] 哀|#言いそびれた『ありがとう』


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