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旅のすえ また大川に めぐりあう

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彷徨を続けた人生でしたが、いまは大川の畔にもどっています。
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#東京

江戸と東京をめぐる無駄話#21/おわり

さてさて。一年余りかけてズルズルと書いてきた江戸と東京を巡る無駄話だが、ここで漸くおつも…

勝鬨美樹
2年前
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江戸と東京をめぐる無駄話#20/おつもり#06

大政奉還後、そそくさと蟄居する徳川慶喜を見て、諸藩武家も足早に江戸市中から撤去を始めた。…

勝鬨美樹
2年前
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江戸と東京をめぐる無駄話#19/おつもり#05

日米修好通商条約締結(1957/7/29)を受けて、徳川幕府は翌々年1859年7月1日に武蔵国久良岐郡横…

勝鬨美樹
2年前
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江戸と東京をめぐる無駄話#18/おつもり#03

天皇という錦の御旗を立てて、徳川幕府から日本国の統治権を奪取した薩長明治政府は、まずオノ…

勝鬨美樹
2年前
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江戸と東京をめぐる無駄話#16/おつもり#02

幾つもの幸運が重なって、薩長明治政府は日本国を我が物にした。 江戸の半分を構成していた武…

勝鬨美樹
2年前
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江戸と東京をめぐる無駄話#15/おつもり

事業の成功は、沢山流された血と汗と涙そして少しの僥倖から為される。 明治政府もそうだった…

勝鬨美樹
2年前
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江戸と東京をめぐる無駄話#14/天皇の資産形成#02

薩長明治政府は、天皇家の功績に対してまず、ほぼ10万石だった禄高を15万石に増加させた。財源は70万石に削減した徳川家の持ち分の分配である。また所有土地についても大幅な増加を認め(多くは徳川家のものだった)明治半ばころには、54か所/700万坪が「天皇所有」のものとして、ここからの「売り上げ」が天皇家の収入となった。これが如何ほどかというと、明治6年の段階で50万円ていど、明治半ばころには200万円程度に膨れ上がっている。 明治13年に「第十五国立銀行」の設立。ここが投資先と

江戸と東京をめぐる無駄話#13/天皇の資産形成

時代の趨勢で徳川幕府に取って代わった天皇を頂く明治政府だが、中身は薩長の下級武士と京都の…

勝鬨美樹
2年前
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江戸と東京をめぐる無駄話#12/明治政府の財布の中

1868年(慶応四年)4月11日。江戸城無血明渡しによって、江戸は完全に薩長が先頭を走る東征軍の…

勝鬨美樹
2年前
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江戸と東京をめぐる無駄話#11/無能な王は当然国を亡ぼす

戦争は国力を削ぐ。まして内戦は傷が深い。海外から嗾けられて長州・薩摩・土佐が徳川幕府に食…

勝鬨美樹
2年前
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江戸と東京をめぐる無駄話#10/見間違えた政敵#03

1860年3月24日/安政7年3月3日。この日の江戸は明け方から季節外れの雪模様だった。 3月3日の雛…

勝鬨美樹
2年前

江戸と東京をめぐる無駄話#09/見間違えた政敵#02

ペリー来訪が1853年7月8日。 蒙昧病弱だった家慶死(1853年7月27日)後、将軍席は実子・家定が継…

勝鬨美樹
2年前

江戸と東京をめぐる無駄話#08/見間違えた政敵#01

不運なことに・・徳川幕府は、徳川家斉の長期安定政権のあと、将軍席を実子・家慶が継いだ。 …

勝鬨美樹
2年前

江戸と東京をめぐる無駄話#07/幕府三傑の登場

徳川幕府について客観的に見つめるとき、家康は決して圧倒的勝利を得て政権を確立したわけではなかった・・そのことを理解しておく必要があります。彼は絶対的な独裁者にはなれなかった。戦争に倦んでいたいた諸大名の"気"に乗って成立した政権だったのです。領地としてみると、彼が完全支配に置けた地は、日本全体の1/3程度だった。あとは諸大名の持ち物の儘だったのです。 つまり天下統一を維持するための収入源となる土地は1/3。その1/3で政権を維持しなければならなかったという訳です。 しかし徳川