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江戸と東京をめぐる無駄話#07/幕府三傑の登場

徳川幕府について客観的に見つめるとき、家康は決して圧倒的勝利を得て政権を確立したわけではなかった・・そのことを理解しておく必要があります。彼は絶対的な独裁者にはなれなかった。戦争に倦んでいたいた諸大名の"気"に乗って成立した政権だったのです。領地としてみると、彼が完全支配に置けた地は、日本全体の1/3程度だった。あとは諸大名の持ち物の儘だったのです。
つまり天下統一を維持するための収入源となる土地は1/3。その1/3で政権を維持しなければならなかったという訳です。
しかし徳川幕府は、全国共通通貨を作った。これを天下の共用金にした。
いつも書きますが、通貨発行権は「打ち出の小槌」です。お金はお金を作っただけで「額面金額-製造原価=製造者利益」になるからです。
徳川幕府の経営を支えたのは、この通貨発行権だったのです。
それでも時代が下ると共に経費が増大し、収支バランスは幕末には危機状態に陥っていました。それを一掃したのは・・黒田BOJならぬ勘定奉行・荻原重秀でした。彼は純度86%だった慶長小判から純度57%の元禄小判に改鋳した人物です。これによって幕府の通貨発行益は一挙に1.5倍になり、財政難は一瞬で解決してしまいました。・・金融緩和ですね。
ところがですね、将軍綱吉が亡くなり家宣に代替わりすると、側近だった新井白石が荻原重秀を失脚させると共に逆鋳造"正徳の改鋳(1714)"を実行し、小判の純度を86%に戻してしまいました。新井白石は能才・荻原重秀に嫉妬し憎悪していた・・彼の業績を片っ端に無きものにしています。
そのため、再度幕府は致命的な財政難に陥り、景気は一気に低迷してしまいました。
金融引き締めが不況の引き鉄になるのはいつの世も同じです。

そしてそこに黒船が現れた。
黒船が来ることは、幕府は長崎のオランダ商館から提出される「オランダ風説書」で知っていました。オランダ風説書はオランダ商館が得た海外情報を江戸幕府へ提出した報告です。安政代にはジャカルタのオランダ総督府機関紙「ヤファンシェ・クーラントJavaansche Courant」が使用されるようになり、これを蕃書調所が翻訳して幕府に提出していました。
したがって徳川幕府は、清国における「アヘン戦争」も欧米のマーケットサイズも熟知していたのです。
・・じつはペリーの来日を、徳川幕府は手薬練を引いて待っていたのです。突然やってきたペリーにびっくりした・あぁどうしようではなかった。事前に対応策は検討されていた。このへんのことは、明治を持ち上げ幕府を無能とする明治史観の延長線上にある現代日本では意図的に触れたがらないところです。
対応したのは、岩瀬忠震/水野忠徳/小栗忠順三名を筆頭とする徳川幕府の能才官僚でした。
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彼らは今にも財政破綻を起こしそうな徳川幕府を一気呵成に刷新するのは、外国との修好通商条約であることを熟知していたのです。・・しかし、心底からの開国論者ではなかった。
積極的な開国論者は岩瀬忠震ら「目付陣」でした。
ちなみにこの「目付」という役職はとても面白い。ローマ帝国のケンソルCēnsorに近い地位でした。
ローマのケンソルについて書き始めると、またまた枝葉の枝葉までいっちゃうから書きません(^o^;;

無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました