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江戸と東京をめぐる無駄話#11/無能な王は当然国を亡ぼす

戦争は国力を削ぐ。まして内戦は傷が深い。海外から嗾けられて長州・薩摩・土佐が徳川幕府に食いついたとき、幕府は石高制と幕府発行通貨による経済政策が経年疲労を起こし破綻寸前になっていた。
その窮地を脱する為の井伊大老の開港政策だったのだが、結果として起きたのは桜田門の変/公武合体である。すべてが裏目に出ていた時である。もし一つでも、徳川財政立て直しの糸口になっていたら・・事態は大きく変わっていただろう。長州征伐は、反乱の芽を潰す成果になっていたかもしれない。しかし時代は慶喜の味方をしなかった。ありていに言うならば、時代が味方するほど慶喜は有能ではなかった。愚才だった。
それでも大政奉還し王政復古となっても慶喜は自分がイニシアティブを持ち続けるだろうと信じて疑わなかった。なぜか?馬鹿にもわかるほどの財源力差が幕府と朝廷の間にはあったからだ。

たしかに勝海舟がこぼしたように「幕府の庫はすっからかん」だった。しかし広大な直轄領を持っていた。そして通貨発行権を持っていた。いまはない。しかし来年は産出す財源力を保持していた。
一方、朝廷の御料は3万石。神社/各藩などからの献納米があるだけだ。あまりにもお粗末だ。
大政奉還の折も、財政的な目途が付かず、幕府側から保持している「400万石のうち、せめて200万石くらいは朝廷側に渡そうか」という議論が出たほどだった。従って慶喜は、王制復古に司る新しい政府の会議においても、自分が議長的な立場になるであろうと確信していた。
しかし王政復古を宣言した夜に開かれた小御所会議に彼の席は無かった。それどころか、内大臣罷免が内定、直轄領の召し上げが論じられたのである。・・なんという公家側の高慢な近視眼的処置か・・僕らは時代の中で同じようなケースをいくつも見る。

当然、慶喜は激怒しこれが鳥羽伏見の戦いの原因となった。しかし碌な体制も取らないままの慶喜の戦陣は、用意周到に準備された長州側の前にいとも簡単に崩落し、慶喜は江戸へ這う這うの体で逃げ帰るという無様をみせてしまった。
このとき・・・慶喜は致命的な失策を起こした。この失策によって徳川幕府は破滅するのだ。
それは、二条城にあった幕府側の貯蔵米5000石、大津にあった会津側の貯蔵米8900石をそのまま放置してきたことである。気配りと予測のできない無能な指導者を頂く組織は、大きな曲がり角を迎えたとき、必ず斃れる。

実は、鳥羽伏見の戦いのとき、朝廷側は完全に財政破綻まで陥っていた。有名な話である。朝廷側は弁当代などの所要だけで26万両の借金を抱え込み」何とかしなければ、明日から弁当も食べられぬ」と田村公正が呻吟したほどだった。あったのは長州勢が海外から調達できた資金・・それも僅かな残り分だけだったのである。ところがそこに慶喜が捨てていった大量の米が舞い込んだわけである。これが大きな潮目になった。今まで、江戸幕府側だった大阪商人たちが挙って薩長維新軍側に乗り換えたのである。
これで勝敗が決まった。

大久保利通は、この潮目に乗った大阪商人を完全掌握する必要があった。そのために浪花建都論の流布と、天皇による大阪巡幸を仕掛けた。1868年2月9日、有框川宮を大総督とする江戸親征が決した後、3月23日天皇は大阪へ入り、ここを征東の本拠とした。
"トノさまズレ"した慶喜に比して、大久保利通はあくまでも用意周到だったのである。
大阪より江戸に向かった天皇一行に随行した岩倉具視との住復の手紙のなかにも「天皇が途中あきられるといけないから、菓子を入れておくように」などとという文言が残されている。

無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました