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江戸と東京をめぐる無駄話#18/おつもり#03

天皇という錦の御旗を立てて、徳川幕府から日本国の統治権を奪取した薩長明治政府は、まずオノレが正統的日本国統治権継承者であることを諸外国に認めてもらわなければならなかった。
開港は徳川幕府によって行われており、横浜に窓口を設けている米英仏蘭/諸外国にとって日本国=徳川幕府だったのである。

いかに「天皇=国王復権」という御印を振り回そうとも、事態の趨勢を推しはかる米英仏蘭は態度を保留したままでいた。もちろん薩長明治政府に対してはロスチャイルド家英国より多大の資金援助が行われていることは公然の秘密だった。もし雌雄が決まれば・・薩長勢が勝利すれば・・彼らがロスチャイルド家の意思に即応するつもりだったことは間違いない。
しかし・・果たして人財・資産とも革命勢力に勝る徳川幕府が、天皇という錦の御旗にひれ伏すのか? 姻戚関係が天皇家と輻輳的に重なる由緒正しい徳川家が、貧乏公家と貧乏田舎侍のガナリ声に屈するのか?本当のところは五分五分だ・・と彼らは見ていたに違いない。

それでも1868年5月3日(慶応4年4月11日)江戸城無血開城し「江戸ヲ東京ト改名ス」と詔勅が出され、同年10月23日(慶応4年9月8日)に元号も明治と改元し、同年11月26日(明治元年1月13日)には明治天皇が入城されたことから「之趨勢決まれり」とみた米英仏蘭は、翌1869年2月9日(明治元年2月9日(旧暦12月月28日)に、薩長革命政府を正統政府と認めている。
薩長革命政府は胸を撫で下ろしたに違いない。

すぐさま新政府は諸外国との窓口の開設を急いだ。
実はその段階では、相変わらず米英仏蘭の公館は横浜に集まっていた。
徳川幕府は開港地として横浜を制定した。それは外国勢の拠点を街道筋からも江戸からもある程度の距離を置くことで、無用な摩擦を防ぐという意図があったためである。しかし日米和親条約(1854年3月31日)が締結され、万延元年遣米使節がサンフランシスコに送り出さられ、その一団が世界一周から戻った頃より、江戸市内にも開市の必要性ありという気運が幕府の中にも生まれてきていた。たしかに寒村だった横浜は「外国人居留地」指定されたことにより、急速に進化はしていたが、何しろ遠い。もっと近いところに外国との窓口が必要だという判断をしたわけである。

そこで候補地として出されたのが東京湾にもっとも近い新開地・築地だった。幕府は1867年7月7日に江戸開市予定地として「鉄砲洲・築地」の名前を挙げ、同年11月には米英仏蘭/各国代表との間で築地居留地建設に関わる111か条からなる「外国人江戸に居留する取り決め」を結んでいる。

その「取り決め」に添えられた書類を見ると・・対象されているのは、今の明石町一帯。およそ3万坪ほど。これを52地区(のちに60地区)に分け、米英仏蘭に対して永久借地権を競売する旨が記されている。しかし当時の絵地図を見れば分かるのだが、築地・鉄砲洲には幾つかの大名が藩邸を構えていた。これを撤去させなければならない・・これは、かなりの力仕事になる。そして隅田川だ。この大川は名の通り「大川」だったが、大型船が入れる深さはなかった。下流から流れる土砂によってかなり浅い川だったのだ。

実は徳川幕府はこれで善しとしていた。
川が浅ければ大型軍船が江戸湾から江戸に攻め入ることはできない。それと徳川幕府は、諸藩から送られて来る物資を運ぶ大型船/菱垣船・樽廻船が市中へ直接接岸することは認めていなかった。これら大型船舶は房総三浦半島など江戸湾外縁に泊められ、そこからは直参旗本が管理する小型船で江戸市中に運ばれていたのである。これが禄高/領地を持たない直参旗本たちの重要な収入源になっていたのだ。

こうした事情を鑑みながらも開港しここに大型船を入れるには、かなり大規模な浚渫工事と根回しが必要になる。・・そのために、先ずは開港ではなく開市としたのだが・・いずれにせよ、この二つの大問題が「築地外国人居留地」の前には立ちはだかっていたのである。

ところが・・その具体的な競売が始まる前に、屋台骨である徳川幕府が揺らいだ。その年の11月9日。大政奉還が為されてしまったのである。なんと、ドラマチックな・・

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無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました